「出会ってしまったら、仕方がない。」
先日、「なみだの分かちあいアジア」というNGOの代表である「りゅうさん」がおっしゃった言葉です。
出会ってしまったので、りゅうさんはずーーーーーっとアジアの各地で大変な思いをしながら生きている人たちのために活動を続けていらっしゃるのだそうです。
多少は知ってることもありましたが、やはり知らないことがいっぱいでした。
危険な場所にも赴いて、現地を見てきている人の言葉は重たかったです。
りゅうさんも言葉に詰まることがありましたし、会を主催してくれたinahoの店長さんは会の早いうちから目に涙を溜めていました。
今回は、特にバングラディッシュのチッタゴン高原における少数民族虐殺についてお話を聞きました。
(良かったらこちらなどを参照してみてください。)
そんなお話を聞いて、知り合いの参加者さんの中には、恵まれてるのにコレといって何もできない自分たちに罪悪感に似たような気持やもどかしさを感じていたようでした。
それこそ、出会ってしまったら仕方がない、のです。
知ってしまったら、そういう気持ちなるのは仕方がないのだと思います。
「自分には関係ないことやし~。」とスルーできるくらいの人なら、あんな会に参加しませんからね。
ですから、そうやって心が強烈に動くというのは、大切なことだと思います。
しかし、やっぱり罪悪感は要らないものだと思うのです。
悲しみや怒りは行動力の源泉となることができると思うのですが、罪悪感はモノゴトのねじれを解消するための行動力を呼び起こすことはとても少ないような気がするのです。
自分を責めるだけで終わってしまうような気がするからです。
ですから、出来事に対して悲しみや怒りを感じてる途中で、それが罪悪感になってしまいやすい人は、まずはそういう自分の中のねじれを解消することから取り組むべきなんじゃないか、と私は思います。
それでも全然遅くないと思います。
と、言いますか、それが結局は一番の近道なんじゃないかな、と思うのです。
私たちはみんな「ねじれまくってる存在」なのでしょうから。
や、しかしほんと、「出会ってしまったら、仕方がない。」という言葉には、深く頷くしかありません。
人生を捧げるような仕事であったり、パートナーであったり、または殺す殺されるという関係になってしまったり…。
良い意味も悪い意味も半々ですね。
でも、どんな「因」を持っていたとしても、それを「果」とするための出会いである「縁」を起動するためには、「自分がどのような言動を選択するか」にかかっているようにも思います。
どんな「縁」が発動するかは、今の自分の在り方そのもので決まるんだと思います。
……って、じゃあいきなり国が内戦状態になって難民になってしまった人たちは、そういう在り方をしてたのか?と問われると、
集団意識の状態でそうだったとも言えるかもしれませんし、そこに生まれたという時点ですでに「縁」が発動してた、とも言えるような気もします。
私たちが今の日本に生まれた、ということも、そうでしょうし。
………って、じゃあ好ましくない「因」の「縁」が発動してしまったら、もうどうしようもないのか?と問われると、
それを完うするしかない、とも言えるかもしれませんし、「その出来事に対してどう反応し、どんな言動を選択するか」を更に問われてる、とも言えるような気もします。
出会ってしまったら、仕方がない。
…ので、まずはそれを受け入れる。
でも同時に、その出会いをどのようなものにしていくのか、の裁量権を与えられてることも忘れない。
そういうことなんじゃないかなー?と、私は思います。