民絵屋を開店したのが8年前の今日でした。
お仕事を続けていられるのもみなさんのおかげです。
ありがとうございます♪
これからもどうぞよろしくお願いします♪♪
さてさて。
こんなツイートを目にして、思わずリツイートしたのですが。
女性差別を無くしたければ、男が男を差別している状況を無くさないといけない。すべての国民を救いたければ、自尊心を奪われて働くすべての官僚を救わないといけない。でも虐められた人間は虐めた人間を救うことを自分に許せるか。虐めた人間は虐めた相手に救われることを自分に許せるか。
— 木葉功一 (@kibakoichi) 2017年1月17日
被害者が加害者を救うことでしか状況を改善することはできない。見かけはどうあれすべての加害者は被害者に依存しているからだ。でも人間の感情は理不尽なその事実に耐えることができない。中途半端では。
— 木葉功一 (@kibakoichi) 2017年1月17日
なので、一番現実的なのは、自分で自分を救う作業に没頭することなのだと思う。
— 木葉功一 (@kibakoichi) 2017年1月17日
はぁぁぁぁぁぁ~…と、ため息が出ました。
実は先日、うわわわわわわ!と叫びたくなることがありました。
どれだけ優しそうに見えるお母さんでも、怒ると怖いし、よく怒ってるものだ……というのは、自分が子供の時に怒られる立場として、今は怒るお母さんという立場で実感していることではあるのですが、
それでも、ちょっと異常な怒り方をする自分というのに薄々気づいていました。
それは、「普段の怒り方」ではなくて、何か特殊なスイッチが入るかのように怒る「異常な怒り方」なのです。
暴力をふるうことはありませんし、怒鳴り散らすわけでもありません。
でも、「コントロールできなくて高圧的にいつまでも怒り続ける」という普段の私ではなくなる怒り方をするで、娘はとてもしんどいと思います。
ええ。
毎回、後から「しまった。」と思うのです。
でも、娘にそのように怒ることが時々あるのです。
先日もそのように怒ってしまいました。
そして、後から娘に「怒りすぎて悪かった。娘ちゃんの話もちゃんと聞かなくて怒ってごめん。」と謝りました。
……謝ったのですが、同時にさすがにこれはアカンやろ、と、初めて真剣に思いました。
それまでも「反省」はするのですが、「これはマズいやつや。アカンやつや。」と初めて気づけたのです。
なので娘には
「今はお母さんを許してはアカンよ。許さんでいいから。娘ちゃんが『いいよ。』と言ってくれるとお母さんはまた同じことを繰り返すに違いないから。」とも言いました。
娘も真剣な顔をして頷いてくれました。
そこから「どうしてそうなるのか」をじっくり探してみました。
今まで自分が「異常な怒り方」をする時はどんな状況だったのかを、できる限り思い出してみました。
すると、娘が小学生になってからが多くて、それも最近増えてきたのが分かりました。
そしてハッと気がついたのです。
これこれこうする…という自分の中の予定を、娘が突然ねじまげるような行動をしたり、友達と約束してきたりすると、怒りのスイッチが入ってしまうケースが圧倒的に多かったのです。
しかし、子供が親の予定していることを無効にしてしまう…なんてことは日常のことです。
なのに『怒りのスイッチ』が入ってしまう場合があるのです。
それは、娘の言動に対して
身体がしんどいことが多い中で、なんとかやるべき家事等をこなしていくために体調を見ながら自分なりに予定を組んでいるのに、それを知りもしないでいきなり予定を変更するようなことを言い出す・やらかす、と私が無意識に解釈してしまう時にスイッチが入ることに気がついたのです。
ですから、後から「なんであんなに怒ったんやろ?あんなに怒るような案件じゃないのに。」と冷静になって反省するのです。
娘の言動に大きな問題は無いからです。
20歳で体調を崩してから、体調の不安定さを抱えながら大学に通い、会社にも勤めていました。
特に会社では、いつ寝込むことになるか分からないので、予定を前倒しにして仕事をするように心がけていました。
みんなにかける迷惑を最低限のものにしなければないならい、と、ある意味では強迫観念みたいなものになっていました。
その癖がまだ残っているのか、端から見たらゆるゆるな主婦でしょうが、自分では「自分の体調の不安定さを常に考慮しつつ予定を組んで行動している」という意識があるのです。
そしてそれは、いつも心の中に重苦しい「不安」を生み出しています。
「自分が動かないといけない時に、しんどくなったらどうしよう。」という不安が意識と無意識の狭間にいつもいつも横たわっています。
ですから、子供を迎えに行かなければならないのに体調が思わしくない……と、我慢できる限界の気持ち悪さや頭痛を抱えてながら運転することも時にはありまして、そんな時はそんな自分の身体がほとほとイヤになります。
ついでに言うと、運転が得意ではなく夜道は特に苦手なのに、暗くなってから娘をソロバン塾に迎えに行かなければならない時も、目が良くなくて反射神経も良くない自分の身体がイヤになります。
昨年一年間のアレコレで、身体が楽な日がかなり増えてきて、精神的にも相当楽になってきたのですが、私はまだ『自分の身体を信頼する』というところまで至っていなかったのです。
信頼するどころか、怒っていたんです。
つまり、娘に対しての異常な怒り方をしてしまうというのは、自分の身体に対しての怒りを娘にぶつけていたからだったのです。
イヤだ~…イヤだ~~……とは、ずーーーーーっと思っていましたけど、自分が自分の身体に対して怒っていたというのは、全く認識していませんでした。
病気というものは人に「人生の方向転換を促すもの」という捉え方は、ほぼ同意できます。
そういうものだと思います。
そして、自分の人生においての「体調の不安定さ」への解釈もある程度は前向きにしてきました。
しかしその過程で、私は「怒りをまともに感じることができなかった」のだと思います。
怒ることをヨシとしないからなのか、怒りを潜在化することで楽になろうとしていたのか、そこらへんはまだよく分からないのですが、
とにもかくにも「ちゃんと感じることができないままの怒り」は溜まり続けて、娘にぶつけることになってしまったことには違いありません。
娘がお膳立てしてくれるから「やっと怒れる!」という感じだったのかもしれません。
本当に娘に申し訳ないです。
ですから、『加害者は被害者に依存しているからだ。』という言葉、そして、『一番現実的なのは、自分で自分を救う作業に没頭することなのだと思う。』という言葉は刺さったのでした。
あれらのツイートをリツイートして、こんなことをツイートしました。
友人とこのところ話してるのだけど、「そのままでいい」「ありのままでいい」は、あくまで一時的な避難所みたいなものであって、ずっと通用するものじゃないと思うんですわ。
自分を赦し他人を赦し…というところを進んで行かないと、結局は何も変わらないままなんだろうなと思うんですよね。— たみえ (@TAMIEYAtamie) 2017年1月18日
このツイートの裏にはこんなことがあったのでした。
「娘に対して時々異常な怒り方をする自分だけど、弱い人間だもの。そんな自分も赦さないとね。」という意味ではないことはお分かりいただけると思います。
ちなみに。
「自分の身体を信頼する」というのは、「絶対に健康で丈夫で元気になると思い込む」こととは違うんだ、とようやく分かったような気がします。
8周年おめでとうございます(^O^)
続けて行くって、凄いことだと思います。
これからも応援しております!
たみえさんの気づきのことも
同じようなことに、やっと自分も気づいたところでしたので、
ムチャクチャシンクロじゃんっと思い、コメントさせていただきました。
ありがとうございました(^O^)
> 8周年おめでとうございます(^O^)
>
> 続けて行くって、凄いことだと思います。
> これからも応援しております!
ありがとうございます♪♪
これからもどうぞよろしくお願いします♪♪
> たみえさんの気づきのことも
> 同じようなことに、やっと自分も気づいたところでしたので、
> ムチャクチャシンクロじゃんっと思い、コメントさせていただきました。
シンクロしましたか~~~。
こうやって気づけるというのはありがたいことですよね。
お互いよく頑張りましたよねっ!