いきなり季節が進んだので、お猫様も少し寒いのか、私がブランケットにくるまっていたら、その中にもぞもぞと入りこんできました。
今年の冬はどうなんでしょうね?
寒いのかな?
さて。
数週間前のことですが、
おとーちゃんも一緒にたまたま見ていたテレビ番組で、大塚国際美術館を取り上げてまして、
再現したシスティーナ礼拝堂の天井画が映っていました。
http://o-museum.or.jp/publics/index/49/&anchor_link=page49
私はぼーっと見てただけなのですが、おとーちゃんが突然、
「あんた、こーゆーところで模写してたんだったよねー。過去世で。」
と、言いました。
あれ?
そうだっけー?
すっかり忘れております。
「豊橋の(霊能師の)先生がそう言っとったやん。」
あれー?
そうだっけーー?
すっかり忘れて………あ、なんか薄っすら思い出したかも。
そんなようなことを言われた覚えがあるかも。
その話になった時にぽんと思い浮かんだイメージが蘇ってきたのでした。
その時の私は男性でした。
上手というわけでもなく、それを生業としているわけでもないのですが、模写してたようです。
そんなイメージでした。
好きで模写してたんですかねぇ…。
過去世で習得した技術というのは現世でも活かせることが多いそうですが、思いがけず中年期になってから絵を描く仕事をしているというのも、そういうモノがあったからなのかもしれません。
実際、今の私が描いてるのも天使なので、礼拝堂などの絵を模写してた、というのも納得ではあります。
それで、
そんな会話をしていたのなら、ブログ記事に書いてあるんじゃないかー?と検索をかけてみましたが、ひっかかりませんでした。
mixiの日記に書いておいただけかもしれません。(←でも検索できないので諦めました。日記の量がハンパないので。)
しかし、探してる時にこんな記事を発掘しました。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-345.html
息子が小1で娘が年少さんの時です。
これもすっかり忘れていました。
もちろん、ミカエルの守護の元で描いているという意識はずーっとありますけど、久々に読み返してみて何とも不思議な気持ちになりました。
魂というものは、ひとつのかたまりというイメージを以前は持っていたのですが、どうやらそうではないようで、
2008年の春先に、観音様に私自身の魂のイメージ映像を見せてもらったのですが、
小さな光るつぶつぶの集まりで、その中に3つほど大きい丸い玉がありました。
どの本だったかは忘れちゃってすぐに探せないのですが、五井先生も、
魂というのは分離するし、集合するし……みたいなことをおっしゃっていたように記憶してます。
他にもいろんな人が似たようなことを言ってますよね。
「光」は、物理学の本にも書いてありますが、粒子でもあり波でもあります。
粒子としてイメージすれば、観音様が見せてくれたようなものになり、
波として見れば、さまざまな波長の波を合わせたもの、みたいなイメージなんでしょうね。
↑
さっきPCを立ち上げたら、この画面になったので、写メ撮ってみましたー。
このイメージって近いかも。
このように、さまざまな粒子の集まりでもあり、さまざまな波の集まりでもあるのが魂だとすると、
「時間」の枠を取り払えば、「私」という存在の「魂的要素」は、その要素の配分もさまざまな上に、さまざまな時空間でさまざまな人生を「誰か」として【平行して】経験しているところなんだろうなー、と思ったりするわけです。
今の「私」の魂的要素の3つの大きなカタマリは、おそらくタミエルとファウとミルラ・ム姉さんだと感じるのですが、
その他にも「今の私」であるために、たくさんのつぶつぶが「この私の人生にとって必要不可欠」だとして参加してくれてるように感じるのです。
その1つの小さなつぶが、礼拝堂で模写をしていた男性の「魂的要素」の中の1つでもあるんだろうと思うのです。
そう考えると、
「私」という意識は、実は非常に特異なものなんだろうなー……なんて思っちゃったりして、
さらにとても不思議な感覚に陥るのでした。
「私」なんてものは、その意識を含めて、まるでホログラフィーですね。
あるようで無い。
でも目の前にはやっぱりあるようにしか見えない…ので、あるとしても構わない。
ならば、より美しいホログラフィーにしていこうという想いが、良い道標になりえるかもしれませんね。
というわけで、「魂」という絵を描いてみました。