娘はディスレクシア★その4★


頭が良いということは、私にとっては『とても好ましいこと』となっていました。
もちろん、頭が良いということは、単なるひとつの長所でしかないのは分かっています。
それだけが評価の指標ではありません。
ただ、前回の日記に書いたように、私にとっては大事な要素となってしまっていた、ということです。
そんな私にダウン症の息子が生まれたことで、私の中のさまざまなものが瓦解しました。
それは見事なくらい壊れまくり、そして新しい価値観を私に見いださせてくれました。
当然ですけど、息子が健常児だったらなぁ~…という気持ちは、今でも時々起こります。
それは障害児の親の多くがそうなのではないか、と思います。
子供の成長に伴い、わが子の自立について考えた時に、障害児で良かったなんて思うわけがありませんものね。
ウチの子よりももっと希有な障害がある子供を持っている友達は、
「この子より先に死ねないよねー。」
と笑って言ったことがありました。
「そうだよねー。」
と私も笑って言いました。
やっぱり、切ないですよ。
けれども、それとは違った次元で、知的障害のある子として生まれてきた息子に感謝しているのです。
私の中のさまざまなものを壊してくれたからです。
しかし、
しっかりと土台は残っていました。
娘がディスレクシアだと気づいてから、そんな「土台」の在り処をまざまざと見せつけられることになりました。
娘は、ブ子を飼い始めてからずっと獣医になりたいと言っています。
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けれども、ディスレクシアだと勉強するのにそれなりのハンデがあるわけですから、ただでさえ大学の獣医科は少なくて入学が難しいのに、彼女にはとてもハードルが高いものとなってしまった……と、思った途端、
14歳で夢を手放したあの日のあの気持ちが蘇ってきました。
この子も私と同じ気持ちを経験するのかな……、と思ったら、ほんとうに悲しくなりました。
……が、
それはほんの入り口に過ぎませんでした。
知的には問題が無いですし、
娘程度のディスレクシアならば、キーボードでの入力を覚えればいろんな表現ができるに違いないというのも分かっています。
彼女が彼女らしく生きていくのに、身動きが取れなくなるほどのハンデでは無いというのは頭では分かるのです……が、
大学受験に至るまでの勉強のアレコレを考えると、やはりそこそこのハンデですから、すごーーーく重苦しい気持ちになってしまうのでした。
何日もそんな重苦しい気持ちと向き合っているうちに、気がつきました。
私は、自分ができなかったことを娘にしてもらいたかったんだ、と。
母親が自分の夢を娘に投影する、というのは時々見かけますが、
まさか自分の中にもそのような構図が存在しているとはまったく気がついていませんでした。
息子のおかげでさまざまなものが壊れて、新しい価値観を見つけることができたと思っていたけれど、土台はしっかり残っていたのだと気づいて、かなり衝撃を受けました。
娘には、私よりも勉強ができる頭であって欲しかった。
娘には、夢を叶えるための努力が報われるだけのスペックを備えていて欲しかった。

それは、娘を通して、私の夢を叶えたかっただけなんだな、と気づいて、ゾッとしました。
ええ、ほんとにゾッとしました。
多かれ少なかれ、そういうのはあると思うんですよ。
あったらいけないことではないと思うんです。
でもね、行き過ぎはよろしくないですよね。
私の場合、自分自身に対して巧妙に隠していたことになるわけですが、それは意識したらアウトなものだったからなんだと思います。
ちょっと行き過ぎてると感じました。
ここで気づくことができて良かった、と、心底思いました。
叶えることができなかった夢を、(たとえ無意識だったとしても)娘を通して叶えようとしたままだったら、娘の成長のどこかのところで大なり小なり悪影響を及ぼしていたと思うからです。
自分のアイデンティティとすら言えるほどの夢を手放し、では私は不幸だったかと言えばそんなことは決してなく、
遥か遠くを見るのではなく、目の前のやるべきことをやる、という生き方を続けていても学ぶことばかりでしたし、「自分を知る旅」であることに違いはなかったです。
私の人生は、私を豊かにしてくれていると思っています。
そう思う気持ちに嘘は無いのですが、それでも人間というのは多層といいますか、様々な想いが昇華することなく自分からも見えないところで息をひそめているものなのだなぁぁぁぁ……と、あらためて「人間って複雑っ!」と苦笑いするしかありませんでした。
……と。
気づいてゾッとして、すぐに慌ただしいことになりました。
まず、娘の友達のことで、娘と真剣に話さなくてはならない状況に突然なりました。
これは今ここで娘と真剣に語り合わないといけないと感じ、娘も真剣に話を聞いてくれました。
すると、娘は私が思っている以上に深く理解を示しました。
「娘ちゃんは、ほんとうに賢いねぇ。これは勉強ができるという意味じゃなくて、人として賢いということだよ。お母さんは嬉しいなぁ。」
と、娘を褒めまくりました。
そしてその翌日。
ソロバン塾から帰って来た娘が、怪訝そうな顔をして言いました。
「ソロバンの先生が、あなたはディス…なんとかじゃないわよね、お母さんは神経質過ぎるわね、って何度も言ってたんだけど、どういうこと?」
実はその前の週に、ソロバンの先生に手紙を書きました。
教育熱心な先生は、まだ習っていない漢字だとしても自分の名前と住所は漢字で書けるようにしておきましょう、とニュースレターに書いていました。
けれども娘はなかなか住所の漢字も覚えきれません。
ですから、最近分かったことですが……と事情を説明して、他の子よりも多少時間がかかることもあるかもしれませんがお願いします、と手紙に書いたのです。
するとその夜に先生から電話がかかってきました。
先生から見て娘が読字障害には全然見えないから、母親の私が神経質すぎると言われました。
もちろん説明を試みましたが、分かっていただけなかったので、私の方が引き下がりました。
……と、引き下がったので、それで終わりかと思っていたのですが、先生は本人にも同じことを言ってしまったのでした。
あーあ、先生ってば~~……。
まだ娘ちゃんには説明していなかったのに……。
と、内心かなりトホホな気持ちになりましたが、
前日に引き続き、ここでちゃんと娘に説明をしなければいけないと思い、(お父ちゃんが一時帰宅するまでに作らないといけない日だったので)夕飯を作りつつ、脳はフル回転で娘に説明することになりました。
人間というのは、凸凹があるんだけど、それがどういうふうに凸凹になってるかは人によって全然違う、
誰でも神様に素晴らしいギフトをもらってて、誰でも凸があるし、その反面凹がある、
お父ちゃんはIQ1XX(←たまたま前日にネットでやって、それを娘が知った)で、大工仕事も得意で車の運転も上手だけど、実は娘ちゃんのディスレクシアという凹はお父ちゃんからもらってる(← ディスレクシアについていろいろ調べ始めてみて、お父ちゃんは自分にもその「ケ」が軽くあると初めて気づいた)、
娘ちゃんの凸はお父ちゃんみたいに点数や数字として表せるものじゃないけど、昨日の友達についての話の後に、お前はとても賢いと褒めたでしょ?それなんだよ、
他にもきっと凸はあるから、そこは努力して上手に伸ばして、たくさんの人を喜ばせるものにすれば、お金持ちにもなれる(←これも前日にお父ちゃんと娘が話してた。お金持ちというのはたくさんの人を喜ばせることでなれるものだ、ということを話してた)、
そして、凹は他の人と同じやり方では上手にできないことが多いから、やり方を工夫しないといけないんだけど、それはいろんな人がいろんなやり方を本やネットでも教えてくれてるから、それを取り入れればいいだけのこと、
(ちょうど娘が、動物のお医者さんもいいけど物書きもいいな、と言い出したところでもあったので)物書きは娘ちゃんの凸を活かすにはとてもいい職業の1つだとお母ちゃんは思うけど、でも他にもやりたいことが出てくるかもしれないし、そのためにも学校の勉強はちゃんとした方が良くて、そこで苦手な部分はやり方を工夫することできっとうまく乗り越えられる、
などなどを、夕飯を作りながらも丁寧に丁寧に話しました。
最初はショックを受けてた娘でしたが、だんだんと顔が晴れやかになっていきました。
そして、
「じゃあなんでソロバンの先生はあんなこと言ったの?」
と訊いてきました。
「お母さんは、お兄ちゃんが障害児なので、障害についてダウン症だけじゃなくて他にもいっぱい勉強したから、ディスレクシアについても知ってたんだよ。
それはカウンセラーさんにもよく3年生で気がついたね、と褒められるくらいだったけど、
学校の教頭先生も教務の先生もディスレクシアを知らなかったんだよ。
なので、ソロバンの先生もディスレクシアについて全く知らなくて当たり前なんだよね。
ただね、とても熱心で真剣にいつもみんなを指導してくれるいい先生だけど、自分の意見が強すぎて他の意見がなかなか耳に入らないところが少しあるみたいで、それで先生の中では娘ちゃんが読字障害とは思えないから、娘ちゃんの漢字テストの点数が悪かったことを気にしすぎてお母さんはあんなことを言い出したんだろう、娘ちゃんのお母さんは神経質すぎるなぁ……、っていう結論になったんだと思うよ。」
と、説明してやったら、
「あ!それも凸凹だ!そうでしょ?!先生にも凸凹があるってことだね!」
と、娘は目を輝かせながら言いました。
「そう!よく気がついたね~。そうなんだよねぇぇぇ。先生にも凸凹はあるんだよ。学校の先生だって同じだよ。
子供も大人も誰でも凸凹があるんだけど、その凸凹は人によって全く違うから、自分でも分からない人がいっぱいいるんだよ。
自分でも分からないから、凸に気づかなくて上手く伸ばせないとか、凹を上手くカバーできないとかで、自分には良いところがない、ダメなところばかりだ…と思い込んじゃう人も少なくないんだよねぇ…。勿体ないよねぇぇぇぇぇ。」
と話す私の言葉を娘は真剣に聞いていました。
その後も、ちょいちょいと凸凹は誰にでもあるよ、という話をいろんな人の例を出しては娘にしています。
ちょっと前からローマ字を学校で勉強するようになって、やはり娘は苦労しています。
仕組みは分かるけれど、子音がなかなか覚えきれずにパッと書けないのです。
「ディスレクシアっていう凹じゃない方が良かったなぁ。」と言ったりもしますが、
どんな凹だって凹をカバーする努力は簡単ではないということを彼女なりに分かっているので、ちゃんと努力を続けています。
そして私も、夕飯作りながらでも真剣に娘に説明したことによって、おおよそ整理がついたような、そんな感覚になりました。
(なのでソロバンの先生が娘にアレコレ言ったことも結果オーライと思っております。)
★★もう少しだけ続く★★

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