昨日の記事の続き…と言えば続きですかね。
同じことを繰り返すその回路にエネルギーを供給してるのはさまざまなブロックだったり偏った思い癖だったりすると思うのですが、
それらの中にあるのは罪悪感とか劣等感であることが多いんじゃないかなぁ~、と思うんです。
確か、斉藤一人さんの本だったと思うんですが、昔読んだ本の中に、「罪悪感は一番要らない感情」みたいなことが書かれてあったのを覚えてます。
もちろん、人を傷つけたら反省をするためにも罪を償うためにも、罪悪感を持つことが必要だと思うんですが、
おそらく我々は不必要に罪悪感を持ち続けやすい傾向にあるんじゃないかと感じるのです。
毒親に傷つけられても、「私が悪いんだ。」と罪悪感を持ってしまい、その罪悪感のせいで自分をなかなか肯定できない…という構図を見てもそれは明らかではないでしょうか。
そして、私自身がそうだったのですが、今生のものだけでも厄介なのに、前世から持ち越してる罪悪感が存在する場合もあって、それがオートマチックにマズい回路にエネルギーを供給してることもあって、
そうなるとなかなか自分で「同じことを繰り返してる原因」を見つけることが難しいよなーと思います。
同じように、劣等感も人生にオートマチックに関与しやすいよなー、と思います。
これは最近になって知ったことなんですが、
友達に紹介された記事を読んでみたら、そこに書いてあったんです。
劣等感と優越感は裏表だって。
言われてみればその通りなんですよね。
劣等感が大きければ大きいほど、優越感も大きいハズなんです。
なぜならば、人と比べて自分を評価するというやり方を、これまたオートマチックにしてるために発生する感情だからです。
私はあれこれ劣等感を持っていますが、このところは特に「絵」に対する劣等感がすごく強くなっていました。
思いがけず「絵を描くことが仕事になった」ために、だんだんと劣等感が強くなっていったのでした。
今年の夏過ぎから、イヤでもそんな自分と対峙せざるを得ないことになり、自分の中であれこれとあったのですが、
そもそも持ってるのが絵に関する劣等感だけじゃないわけでして、劣等感そのものと向き合っていると、
自分でもすごく気持悪かったんですけど、自分自身の中にある優越感の大きさにも気づかされることになりました。
ものすごくショックでした。
でもね。
優越感って隠しちゃうことが多いと思うんですよね。意識的にせよ無意識的にせよ。
謙遜するフリをして。
ええ、フリですよ。フリ。
またはそれが上手くできなくて卑下するんです。
そうやって優越感を隠すんです。自分からも他人からも。
でもね。
隠しても存在するので、ちゃんと反応しちゃうんです。
その優越感が脅かされるような状況が発生すると。
その人の言動になんだかイラっとする。
(上手に言葉を選びつつ)陰で批判する。
「あの人、きらい。」と感じる。
正論を盾とするとか、または、人間だからそういう気持ちになる(言動をする)ことがあっても仕方がないよねー、という言い訳を自分にするとかで、またしても誤魔化すんです。
自分の中に優越感があることを。
そのため、良いものを良いと素敵なものを素敵だと「フラットに」判断できなくなりやすいと思うのです。
でね。
劣等感and優越感も、人生の推進力になることって大いにあると思うんです。
それはそれで経験であり、学びでもあり、喜びに結びつくことでもあるはずです。
けれど、蓮村先生の言葉を借りるなら、それは誰もが持って生まれている使命みたいなもの(ダルマ)ではないと思うんです。
だってダルマは「純粋さ」から(己の中で)再発見されて意図されて行動が生まれるものだということですから。
なので、誰にでもいつか時期が来るのだろうな、と思うんです。
どうして繰り返してばかりなのか、と真剣に自分に問いかけるような時期が。
罪悪感や劣等感and優越感など、燃焼したらススがたくさん出るようなエネルギー源から、もっとクリーンなエネルギー源にシフトしていくための時期がやってくるのかな、と思うんです。
シフトできたら、その時は自分という「個」を【真に】愛することができるようになっていくのかもなー、なんて想像したりしてます。
おれはいつでもいつまでも素敵お猫だけど?