昨日の夜、乙武くんと国分太一くんが対談している番組を見ました。
乙武くんは手足が無い身体でも一度も親を恨んだこともないのは、親が愛情たっぷりに育ててくれたおかげで、自己肯定感がもっさり出来上がっているからだ、と、いろんなところでも発言してますけど、
自分が親になってから、抱っこもできない、オムツも替えてやれない、お風呂も入れてやれない……という、(子供のためにも奥さんのためにも)してあげたいのにできない無力感を初めて深く感じたと言っていました。
愛情が深ければ深いほど、その無力感って大きかったろうなぁ~、と、簡単に想像できました。
そして、変な言い方かもしれませんけど、その無力感はきっととても必要なネガティブな感情だったんだろうなぁ、と思いました。
ポジティブな感情だけでは「突き抜ける」ということはできないような気がするからです。
(だからって、ネガネガうじうじすること自体が良いこととは思わんけどね。そういうことじゃない。)
子供を授かるというのは、自分の想像なんて遥かに超えたさまざまな出来事やそれに伴って自分の中から湧き出す想いを経験し、ひーひー言いながらも気づいたら「突き抜けてた」なんてことの連続だったりするんですよね。
そうやって、なんとかかんとか「親になっていく」んですよね。
そして。
太一くんが乙武くんに、奥さんのお腹の子が自分みたいな障害のある子だったら?って考えた?と聞いたんです。
そしたら、彼は、
障害があったとしてもかわいそうとは思わないし、自分が育ったように育てればいいって思ったけど、
それとは別に、物理的な問題として、奥さんの負担が大きすぎて家の中が回らないだろうから……
と答えていました。
それはねー、すごく分かるんですよぉぉぉぉぉ。
うちも第一子の息子がダウン症なので、第二子の娘がお腹にいた時に、ちょっとは考えたんです。
「1/1000の確率だから、またダウン症ってことはないと思うけど、他の障害ってのもたくさんあるわけで、また障害のある子だったらどうしよう?」
と、おとーちゃんに聞いたら、
「うちに生まれてきたかったんなら、それでいいんじゃない?」
と、おとーちゃんはアッサリ言いました。
そだね。
そうやって生まれてくるかどうかは、赤ちゃんが決めるんだろうから、受け入れるしかないねー。
………でもね。
それだと、多分、あたしが持たないなぁ。
身体がバリバリ丈夫なオカンっていうならまだしも、こんなだからなぁ~。
だから、健常児が生まれてきてくれるとありがたいなー。
と、思ったんです。
(で、妊娠中は、それくらいで後は余計な心配とかしなかったんですわ。生まれてみないと分からんから~って。心配を先取りしてもつまんないだけだし。)
おかげさまで健常児の娘が生まれてくれましたが、それでも「癇の強い子」で、ほんとに手のかかる子だったため、
成長の遅い息子と一緒に「双子を育ててる」ような感覚に数年間はなっていました。
健常児ですら毎日ほんっっっとに大変だったので、障害のある子だったらほんとに家の中が回らなかっただろうなー、と思います。
さて。
さきほど、Eテレで、足と右手がちょこっとしか無い小3の男の子を取り上げた番組をたまたま見ました。
左手だけはちゃんとありました。
一緒に見ていた娘(もうすぐ小学生)が、なんであんな身体なの?と言うので、いろんな理由でお腹の中にいた時に手や足が上手に育たない子もいるんだよー、と教えました。
そして、
「この子は手が片方だけでもちゃんと育って、ほんとうに良かったよね。片手だけでも手があるとご飯も自分で上手に食べられるし、字も書けるし、顔が痒くても自分でぽりぽりできるし、ほんとうに良かったね~。」
と、私が言うと、
「ほんとだね!ほんとにそうだね!良かったね!」と、娘が目を大きくしながら言いました。
昨日の乙武くんの無力感の話を聞いたばかりなので、余計に強く私もそう思いました。
自分ちの子の障害よりも重い障害の子を見て、たとえば「息子はこんなにいっぱい話せるし、元気だし、良かった。」と思うことは度々あります。
でも、それはもちろん弱者同士で比べあって相手を見下すとか、優越感を持つとか、そういう類の「良かった」ではなく、
当たり前と思ってることは、当たり前じゃなくて、こうして在ることをまるごと感謝しなきゃ~!
みたいな感覚なのです。
息子の保育園で、誰かのママさんが苦笑いしながら言ってた言葉を時々ふと思い出すことがあります。
「生まれる時は、五体満足で元気で生まれてきてくれたらそれでいい、って思ってたのに、成長するにしたがって、親の欲がどんどん大きくなるんだよね…。」
って。
当たり前のことは、決して当たり前じゃないって、時々ちゃんと思い出すべきだよなぁ、って思います。