私は小学5~6年生の時に、クラスの友達何人かに誘われて、プロテスタントの日曜学校に通っていました。
遊びに行く感覚でしたけどね。
そこで聖書の話をいろいろ聞いて、なんだかワケわからんなー???というのが多かったのですが、
この逸話は大好きでした。
マルコの福音書 5章25節-34節
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、
何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、
「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、
イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
そこで、イエスは彼女にこう言われた。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。
病気にかからず、すこやかでいなさい。」
スピでもよく言われますよね。
想いが現実化する
って。
この女性は、きっとほとほと絶望してたと思うんです。
どの医者にかかっても治らなくて、そしてスッカラカンになってしまって。
そんなところにイエスの噂を聞いて、イエスが最後の最後の希望となったと思うのです。
もうそこに「疑い」なんてこれっぽっちも入っていなかったと思うのです。
そして、イエスに大仰に癒してもらわなくても、そのお着物に触ることでもできたなら、きっと私は治る……という具体的なイメージを持ち、それを信じて疑わなかったわけです。
ですから、イエスも
「あなたの信仰があなたを直したのです。」
と、言ったのだと思うのです。
イエスが癒したのではなく、彼女の強い想いが彼女を癒した……というのは、ヒーラーの方なら実感としても分かることなのではないかな、と思います。
私は、スピな人が、宗教を否定するのを時々目にして、ちょっと寂しい想いがする時があります。
スピだって既存宗教だって、そんなに変わらんやん、と思うからです。
ただ、スピはアウトラインが柔らかすぎで、既存宗教はそういう部分が固すぎる……という違いがあるだけやん、と思うんです。
まぁ、あと、なんでもそうですけど、開祖の教えがそのまままるごと伝わるなんてことはありえないので、変質しまくって分裂しまくって、わけのわからんことになっちゃったー…ってのが古い宗教ほど顕著なので、そこを否定しちゃうんだというのは分かりますけどね。
でも、スピだって宗教だって、
なぜ私はこうして在るの?
という根本的な問いに対する答えの在り処を示す「矢印」みたいなものだと思うんです。
自分というのは、この現象界にたまたま生まれて意味もなく存在し時間と共に劣化して消え去る……という存在ではなく、感知しきれない何か大きなモノが意図をもって生み出した愛されている存在らしい……ということまずは頭で知り、それを少しずつお腹に落として行って、
大いなる自己・大いなる世界というものを強く信じる
ようになるためには、こっちの道もいいですよー、という「矢印」みたいなものだと思うんです。
「信仰」って、その強度を表したものだと思うんです。
だからね、
深い教養を身につけるチャンスもなく、とにかく家族のために野良仕事をずーーーっと続けて、死ぬまで現役で畑仕事をして、
みんなに優しくて、霊感なんて無いけど毎朝お天道様に手を合わせて「ありがとうございます。」と深く深く感謝して……なんておばあさんが、もしかしたら最強なのかも、とすら思いますもん。
ああ、しかし、
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
なんて言葉、ほんとーーーにほんとーーーーーに泣けちゃいますわ。