願うこと、祈ること。

願いと祈りって違うと思うけど、
凡人の私はいつも願うばかり。
でも、五井先生のお祈りに出会って、空念仏でもいいからとちびちび10年以上少しずつお祈りしているうちに、
なんとなく、祈る私と願う私の違いがちょっと分かってきたのですね。
「あ、これはバリバリ願ってる私。」とか「あー。これは祈りに近いかも。」とかね。
ま、ほとんどは願う私だけどさ。
願うでも祈るでも自己認識はどっちでもいいんだけど、
そこに効果を期待する気持を手放したところで、純度の高い(?)祈りになるのかな、と経験上思います。
というのも、ほんとうに辛くて仕方がない時に、祈って(←ほんとうは願って)た時に、なぜかすーっと心の波が鎮まって、まるで神様の方から扉を開いてくれたような、そんな感覚になったことが1度だけあるんです。
そうとしか言えない感覚。
でも、1年くらいはうっすら保持できてたその感覚も気がついたら霧散していて、今はそこからすごく離れてしまってる自分がいるだけなんですけどね。
そして、その時の事態が私の願う方向に向かったかというと、そんなこともちっともなくてね。
それでも何らかの効果を期待する自我から離れて、願いの象限から祈りの境地へと一瞬だけでも辿り着けた体験というのは、かけがえのないものでした。
これは五井先生のお祈りに出会うずっと前のことです。
自分の外にある現象モロモロに対して、自分も含めた世界人類が平和であるようにと祈る(願う)ということを、空念仏でもいいから続けていくことが、
いづれ「ほんとうの自分が放つ光で、そこにただいるだけでいい」という人になっていく細長い道であるという先生のお話がすぐに腹に落ちたのは、そのたった一度きりの経験があったからこそだと思います。
だから私は、自分の願いが祈りにまで昇華してなくてもいいから、
今までどおり、いつもどおり、世界人類が平和でありますように、とお祈りするのです。
自分の祈り(願い)がさーっとこの現象界に顕現されるかどうかなんて期待は潔く横に置いておいて。

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