そいえば。
和尚さんのセミナーで、えりもも先生が「帰依」という言葉を使われてたんですよ。
ああ、えりもも先生って、いいなー、って思いました。
もちろん、その言葉ひとつだけでそう思ったわけじゃないんですけどね。
でも、それが象徴的に私の中に入ってきました。
えりもも先生も、和尚さんも、宗教的にもスピ的にも、いろんな情報が有り過ぎて、みんなぐるぐる惑わされちゃってるよね、ってことを言ってました。
確かにそうかも、って感じます。
けど、その「情報の洪水」の中から、「絶対の真実」を見つけようとしても、きっとそれは不可能に近いんじゃないかなー、とも思うんです。
奇しくも、セミナーが終わってから、なおぴむんといろいろ話してた時に彼女が言いました。
「私、100%のもの(情報)を求めてたんだよね。でもそれは無理だと思ったんだー。」
って。
でもそれって、すごく分かるなー、って思いました。
たとえば。
えりもも先生っていいなぁ~、って思ったし、スゴイいなーって思ったのも本当だし、
和尚さんはスゴいな~~、って思ったのも本当だし、
オープンな心でお話を聞いてたつもりです。
でも、精査していないか、っていうと、そういうわけじゃないんですよ。
でもでも、精査してたからって、決してナナメな姿勢でお話を聞いてたわけじゃないんです。
んじゃ、そこで精査して、「自分に合う部分(情報)だけを良いとこ取り」してるかっていうと、それもちょっと違うんですよね。
情報だけを「これはアリ」「これはナシ」と選別するのであれば、それはどんな人の話を聞いたとしても読んだとしても、
やっぱり、いつまでたっても「情報に翻弄される・惑わされる」というところをぐるぐるするだけだと思うんです。
自分の全部をもってそれを一度吸収して、そして自分の全部をもって……「濾過する」みたいな感じかなー?
そういう精査をしないと、単なる情報の選別に終わるような気がします。
…って。
えらそーなこと言ってるけど、私にそれがちゃんとできてるかってーと、それは分からんです。
でも、そーゆーもんじゃないか、と私はなんとなく思っておるです。
そしてそれはね、スピに限ったことじゃないよね。