ひのこ☆ねーさんの日記にリンクしてあったブログの過去記事をチラリチラリと見ていたら、
こんな記事がありました。
http://mihoh.seesaa.net/article/129584492.html
アセンションの最終過程でツイン・フレームの存在が現れる…のかぁ。
へー。
アセンションという言葉を知った頃は、うおーーー、って感じになってましたけど、今はなんてゆーか……
「なるようになるさー。」
って感じになってます。
だって、よく分からんですから。
いや、それは決して後ろ向きの想いではなくて、アセンションってのに囚われてても仕方がないし、
今の自分が背伸びをしても仕方がないと思うからです。
とは言っても、
「さっさとどんどん手放していこうね。」
と、お尻を叩かれている状態なので、あまり呑気にしてられんのかもしれないんですがね。
しかし、
その「手放す」とか「魂を、自分を癒す」というのが、これまたあまりにも言葉が抽象的過ぎて、
具体的にどうしたらいいのか、ってーのが分からないことが多いです。
それでも分かることはあって、
「なにかにしがみついている」とか、「なにかを失うことを恐れている」とか、そういう状態は自分を疲弊させるだけだろうな、ってことです。
(ちなみに、しがみついてることと、『ほんとうの信仰』は違うけどね。)
そして、自分がしがみついている「なにか」が、実は何なのかが自分ではなかなか分からないところが厄介だよなー、と思います。
そんなことをたらたら考えていたら、ふとドラゴンズのことが頭に浮かびました。
私は、めっちゃ熱狂的なファンというわけではないけれど、いちおー名古屋文化圏で生まれ育っているせいで、やはり中日ドラゴンズが負けるとあまり気分は良くありません。
特に巨人に負けるとムカっとします。
もしも、私にそーゆー「ファン意識」が無かったら、スポーツニュースを見ていてもニュートラルな意識でいられるのかもしれません。
でも、ニュートラルな意識でいることが大切だというのなら、さまざまな愛着や愛情は単なる足枷でしかあり得なくなるわけで、
それはなんてゆーか………
潤いがない
って感じがします。
恋愛なんてその最たるものだと思います。
けれども、サッカーファンの「フーリガン」みたいになっちゃうのは絶対にヤバいってのは明白です。
じゃあ、やっぱり「熱狂的ファン意識」を捨てることで、平穏が訪れるのかというと、多分それは違っていて、
手放さなければならないのは、「熱狂的ファン意識」ではなくて、「相手を尊重しない自己中心的意識」とか「暴力性」の方ですよね。
「ファン意識」がいけないんだー、って無理やり捨てちゃっても、別の場面でやっぱり暴力性が顔を出しちゃいますもんね。
でも、人生の、魂の「いらなくなったものを後生大事に抱きしめている」という問題に関しては、こんな分かりやすいものではなくて、
なにが要らないものなのかが分からず、何をどうやって手放していくべきなのかが全く分からない、ということだらけなのかもしれません。
アセンションが目的ってわけじゃないけど、
前向きに人生のさまざまな出来事を堪能するとか、
苦しかった過去すら「糧(またはネタ)」にしてしまうとか、
現在の大変な物理的状況や精神的状況にも心が折れないで、しっかり立とうとするとか、
そーゆーありきたりなやり方を信じて続ける努力を続けていれば、一人では分からなかったことも誰かが教えてくれるかもしれないし、
それこそ霊的存在ががしがし導いてくれるかもしれないし、
そしたら、いつかはアセンションしちゃうんだろうなー、って、すげー呑気だけど、そう思うんです。
そいえば、ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」って歌にありますよね。
あなたに逢えた それだけでよかった
世界が光に満ちた
夢で逢えるだけでよかったのに
愛されたいと願ってしまった
世界が表情を変えた
世の果てでは空と海が交じる
って。
苦しみって、やっぱり自分で生み出してるんだなー、としみじみ思います。
でも、愛されたいって願うことがいけないわけじゃないと信じたいです。
じゃあ、ここで自分はこの苦しみを甘んじて受け入れるのか、
愛されたいという願いを手放すのか、
それとも他の道を見いだすのか……。
でも、きっと、誰のせいにもできないことだし、誰かに対して感じる己の感情は、すべて自分へ向けられていることなんだ、って思えば、
そこから道は見えてくるような気がするんですが、どうなんでしょうね……。