そりゃ、マイドラ・時環をハッキリ認知したいという気持ちはあるが。

……あるんだけど。
でも、できないのはできない理由があるわけで、
ジタバタしてなんとかなるものでもないよなー、と思うのです。
でもって、それを「他人にどうにかしてもらおう」というのは、やはり基本的になんだかちょっと違うよなー、とも思うわけです。
もちろん、ヒーリングを通して、そういう回路がキレイになっていくことで、だんだん認知力がアップするとか、ってのもアリだと思うんですよ。
けれど、そういう場合もやっぱり「意図」がどこにあるか、というのが一番の問題だと思うんですよねぇ…。
というのが、あくまで私の考えなんですが。
シエルさんの日記を読んで、ちょっといろいろ思ったのです。
http://plaza.rakuten.co.jp/keanu/diary/201002240000/
いろんなスピ的情報が、その気になればあちこちで入手できるようになってきて、
頭でっかちになりやすいのは、みんな同じだよな、と思うんです。
そして、見えない世界に憧れを持ってしまうのも、仕方がないよなー、とも思うんです。
精神的にせよ、肉体的にせよ、何か苦痛があって、そこから
「人間ってなんだろう?」
「生きるって何だろう?」
「神様がいるなら、なぜ応えてくれないんだろう?」
「私たちは、どこから来て、どこへ行くんだろう?」
という根源的問いに目覚め、その答えを探す旅の中で、「スピ」という領域に入っていったならば、
おそらく、「浮足立った状態」には、なかなかならないような気がするんです。
その問いそのものが、その苦痛そのものが「アンカー」のようになっているような気がするんです。
(実際、私は観音様に、私の肉体的苦痛はそういう役割を持っていると言われたことがあるし。)
でも、そういう「アンカー」を持たずに、「非日常」のファンタジーに対する憧れだけが大きくなっていったら、
カンタンに地から足は浮いてしまうような気がするのです。
スピ的情報は頭の中でいっぱいなのに、
「アンカー」も弱くて、人格的にとても未熟な点があるとしたら、
そんな人が「上」に行ったり、エネルギーワークをしたりしても、
さらにバランスが悪くなる、という場合もあるんじゃないかなー、と思ったりもするんです。
そうすると、自分自身だけじゃなくて、周囲がとても大変になるかなー、と思うんですよね…。
最終的には、「外」に何かを求め続けても、
「内」に戻ってくるから、どんな道を辿ってもいいんでしょうけど…。
でも、そーゆー場合、シエルさんが「お断りする」というのも当然だよなー、とも思うわけです。
ヒーリングとか、セションとかを、他人に対してする人は、
そーゆーこともちゃんと見極めないとアカンということなんでしょうね。
(天使の絵だって、同じことだよね!)
「スピ」の間口が広がってきた、ということで。

“そりゃ、マイドラ・時環をハッキリ認知したいという気持ちはあるが。” への2件の返信

  1. コメントありがとうございます。
    もしかしたら、あけるさんも周りの方達も「バランスが偏っている」状態なのかもしれないですし、
    もしかしたら、それが必然なのかかもしれないですし、
    私には判断できないのですが、
    でも、ご自分で「あれ?」と感じられたのなら、きっとそれが今必要なことなんだろうと思います。
    よかったらmixiのページの方にも遊びに来てくださいね~。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です