昨日の記事を読み返してみて、ちょっとアレではアカンなぁ、と思いまして。
足りない部分を補足しときます。
保育園の先生から「レントゲンを取ってきて。」と言われたと書きましたが、実はこの時にお父ちゃんがちょいとプチ切れたのには他にも訳がありました。
というのは、私達がえらいお世話になっているクリニックの先生のことをあまり良くは思ってないなー、というのが伝わってきたからなんだそうです。
この先生、確かに『異端』なんです。
最初は私達も面食らいました。
処方されるのが『石』だったりするわ、「今ね、サリンみたいなのが増えててね…。」「バイオテロがね…。」なんてこと言うわ、でもって問診には『O-リング』ですからね。
そりゃ普通は「なんだ?この先生??」となると思うんです。私達もそうでした。
でもね、縁あって何度かお会いしてるうちに分かったんですよ。
「あー。これは上の人のお力が相当働いてるんだな。」って。
なので、先生にしたら守護霊さまたちからいただく直観みたいなものを治療という現実にはめ込む際に、普通の人からみたら不可思議な形や言葉になるんだな、って。
別に先生には強い霊感があるってわけじゃないんですよ。(多少あるみたいな感じはプンプンするけどね。)
けれど、先生にはしっかりした信仰と、他人に対する本当の思いやりの心があるんです。
それが上の人たちにも認められて、だんだんとああいう形になっていったんだろうなぁ、と思うんですね。
ですから、私達はものすごく先生のことを慕っているのです。
冷えとり健康法の先生も、某市民病院の普通の耳鼻科の先生だったんです。
耳鼻科に通ってくる患者さんというのは、とても再発しやすいんだそうです。
それをなんとかならないかといろいろ勉強されて、とうとう『冷え』という原因に辿り着かれたそうなんですが、そのうち『神霊治療』までできてしまうことになったのだそうです。
この経緯については先生の本の付録に書かれてありますが、これもやはり「苦しむ患者さんたちをなんとか助けてあげたい。」という真に他人を思いやる気持ちと努力が上の方たちに認められたからこそ、だと思うんです。
しかし、『どこかある線を越えた人』というのは、まだまだ『異端扱い』されてしまうんだなぁ、と感じます。
どうやって表現していいか分からないので、最近私達夫婦の間では『一点突破した人』という言い方をしていますが、自然農の川口先生にしても、吉村先生にしても、『一点突破』した人たちの話というのは、ある程度自分の中にも『何か』がなければ、本当の意味は伝わってこないもののような気がします。
その『何か』が、私達夫婦の中では『五井先生のお祈り』だったわけですが、自分の中に『本当の核』が無いまま『一点突破した人』たちの話を聞いても、上っ面の言葉しか入ってこないんだと思うんです。
もちろん、川口先生や吉村先生クラスになると、本当の核が無い人たちに『核』を見つけさせるような力というか言葉というかオーラというか、そういうものがあるので更にスゴいわけなんですが、残念ながらクリニックの先生はそこまでではないんですね。
だから「私は自分の旦那さんにも理解されないけど、でも頑張るの。」ってことになっちゃうんでしょう。
でもね、分かる人はやっぱり分かるので、先生のところに来る患者さんは多いんです。
というわけで、私達も耳鼻科でレントゲンなんて取る必要は無く、大きな原因は冷えだと思っているし、クリニックの先生も同じ意見なんですが、それを保育園の先生に言っても伝わらないんですね。
あんなちょっと変わった先生のところに行ってるだけじゃなくて、他の耳鼻科でも診察してもらってください、となっちゃうんですよね。
『科学的な医学』を治療の方法としているお医者さんに行け、ってことです。
保育園の先生の立場からすると、そう言いたくなるのも分かるけど、でもやっぱり自分たちからすると「違うんだよー。」ってことになっちゃうんです。
科学的。
保育園の先生たちは実に勉強熱心で、科学的な本をたくさん読んで、講演もたくさん聞いてみえます。
子供の発達を促すために、『人間とはどんな動物か』を科学的に理解しようとしているのです。
それはそれでとても大切なことだし、偉いなぁ、とも本気で思っています。
学生時代に地学科にいた私は古生物学なんぞも実に楽しく勉強した思い出がありまして、保育園の先生に薦められた本も興味深く読んだりもしました。
けれど、この世界をそのモノサシだけで計るとなると、実はとっても足元が危ういと思うんです。
科学はあくまでも『相対的』なものであって、いつ通説が覆るか分からんものです。
なのにその危うさを無視してしまうと、本当のことが見えなくなってしまうと思うんです。
だから、モノサシは他にも必要となってくるのです。
冷えの問題だけじゃなく、他にもちょっとしたいろんなことで「??」と思うことがあって、やはりそこで突き当たるのが『単一のモノサシ』の人たちに、自分たちの考えを上手く伝えることができるか、というものです。
けれど、これら「??」があったおかげで、私自身の若い頃の葛藤の意味がようやく分かり、とても感謝しました。
私は上に書いたように地学科にいたのですが、子供の頃から科学が大好きでした。
7歳の時、親に買ってもらった『宇宙・宇宙旅行』という子供向け科学図鑑を開いた瞬間、魂を掴まれてしまいました。
大人になって言葉をたくさん覚えてから、あの時の自分を表現すると、そうなるな、思ったのですが、その時は言葉も見つからず、とにかくすごい衝撃というか、本当にそこから離れられなくなってしまったのです。
実は私の魂を掴んだ『宇宙』というものも、科学的な宇宙と科学を超えた宇宙の2つが1つの形になったものだったんですが、まぁ、そんなことはその時の小さいよしみちゃんには分かるハズありませんわね。
とにかく、それ以来私は宇宙というものに魂を掴まれたまま生きているわけですが、科学的思考というものを本格的に教えてもらったのはやはり大学時代でした。
自分の基盤としてあの図鑑がありますから、科学的思考というのをちゃんと教えられながらの授業は、本当に私には楽しいものでした。
だからこそ、「オカルト」と言ってたような『非科学的』な自分と、『科学的』な自分との折り合いが、実はなかなかつけられないでいた時期があったのです。
科学的思考もちゃんと教えてもらい、オカルト的要素もどんどん強くなっていく……。
けれど、いつしかそれらは統合されていったので、自然と楽にはなっていったのですが、それは子供の頃から自分の中には2つのモノサシが存在していた、ということだったんだ、と最近になって分かったのでした。
それは、保育園での大小さまざまな「???」のおかげでハッキリしたわけで、やはり人間にとって他者は『鏡』なんだなぁ~、としみじみ感じました。
良い保育園だと思うし、先生たちも親さんたちもとても良い人たちだからこそ、「まぁいいや。」と避けられないのですが(どうでもいい人たちなら最初から諦めるって。)、未熟者の私には『翻訳作業』がなかなか進みません……。
ああ、川口先生や吉村先生の偉大さが眩しいっす……。