雪がコンコンと降ってきた昨日の夕方。
おでかけをしていて、夕食の支度が遅くなったのでバタバタしていたのです。
その間に、地方の夕方のニュースで、あるダウンちゃんの特集が放送されてました。
私は最後の最後の3秒くらいしか見なかったのですが、旦那さんは少しばかり見たようでした。
そのダウンちゃんのことは、以前にもテレビで放送してました。
彼のお父さんが仏師さんで、そのお弟子さんが彼の面倒をよくみていました。
実は、そのお弟子のお兄さんのお母さんと顔見知りなのです。私ってば。
いや、もっと言うとですね、最初に彼のことを教えてくれたのは例の先生なのです。
そんなこともあり、前回の放送はじっくり見させてもらったのですが、今回は放送することも知らなかったので仕方がないのですが、見れなくて残念でした。
(タァちゃんママが携帯メールで番組のことを教えてくれてたんだけど、そのメールも番組が終わってから気づいたのよねぇ…。)
さて。
今回のその放送を見た旦那さんが言いました。
「普通はさ、あーゆーのを見たら、あの子にみんながいろいろ教えてる助けてる…って思うんだろうけどさ、俺には“みんながあの子にお仕えしてる”って感じたんだよー。どーしてもそういうふうに思えちゃったんだよー。」
ほほぉ…。
例の先生も、彼はお徳が高いから、周りが自然と助けてくれるんだと言ってたよなぁ。
だから、旦那さんにはそんなふうに感じられたんだなぁ…、と思いました。
なんか、いいですねぇ~。
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障害者として生まれた人たちでも、彼のようにお徳がとても高いからこそ選んで生まれた人もいれば、前世の償いで生まれてきた人もいます。
同じ障害、同じ病気、同じ境遇でも、みんなそれぞれ魂の持つ因縁やお徳や課題は別モノなのです。
だから、きっと、たとえどんな障害でもどんな病気でもどんな人生でも、その人が『かわいそう』だと思うのは、多分間違っているんだと思うようになりました。
『その時、身体や心が辛い…と感じている』ということについては『かわいそう』だと私が感じて当然だとしても、その人そのものは決して『かわいそう』ではない、と分かっていないといけないなぁ、と思ったのです。最近。
辛いと感じていることに同情はしても、その人そのものまでも『かわいそう』と思ってしまうから、時々違和感を感じていたんだなぁ、と気がついたのです。
それに気がつくと、誰か(または過去の自分)と比べてあーだこーだと感じるということは、本当に意味が無いことなんだなぁ、と分かってきました。
たとえば、先日亡くなったダウンちゃんのことも、彼の病気のことを聞いて
「彼とは違って、アキオは重い合併症が無かったから本当に良かった。ありがたい。」と、思う私がいました。
そんな自分に違和感やら罪悪感を感じていたわけですが、何故違和感を感じていたのか、がようやく分かりました。
でも、こういうことって、結構多いと思うんです。
条件反射的に比較することが癖になってる人って多いと思うんです。
だから、比較してしまうことに罪悪感を感じても仕方がないなぁ、ということにも気がついたんです。
だって今の自分は、そーゆー癖を持っちゃってるんですもん。
無理矢理なんとかしようとしても無駄ですもん。
だけど、それが癖なんだな、ということや、意味の無いことなんだな、ということを分かっていれば、だんだんと変わっていくんだろうなぁ~~、と思うんです。
すると、無駄な罪悪感を持たなくても済むようになってくるのです。
面白いもんです。
そうそう。
自分に対する罪悪感が強い人って、自分以外の人に対しての怒り(批判)も強いですよね。
…自分もそうだったけど。(今も、か。まだまだでござるよ。)
そーゆー思考の癖の産物に振り回されてると、自分の魂の本当の本当の願いが分からなくなりますよね。
気をつけましょう。(だから、自分も含めてだってば。はい。気をつけます!)
>自分に対する罪悪感が強い人って、自分以外の人に対しての
>怒り(批判)も強いですよね。
そう思う。僕の順序は逆だが。
他人に怒り⇒自分に罪悪。
>そーゆー思考の癖の産物に振り回されてると、自分の魂の
>本当の本当の願いが分からなくなりますよね。
これが判らん。そうなの?
日記に書かれてる罪悪感だとそうか。
うん。そうなの。
頭で考えてる自分だけが自分だと思いこんでいると、どうしても振り回されがちよね。
人間の本質は霊であり、神の分御霊なのであります。
こっちが主で肉体(脳で考え出すものも含む)は従なのであります。
なので、頭で捉えている自分(従)が全てだと思っていると、なんだかややこしいことになっていくのであります。
私も散々ややこしいことになっとりました。はい。
いつか知りたいものだなぁ。