昨日の夕方から、大学時代の先輩であるカイチくんとその子どもたち(男女女)が泊まりで遊びにきてくれました。
残念ながら奥さんは用事で来れなかったのですが、お土産を子どもたちに持たせてくれまして、これが「きしめん」。それもたーーくさん!
麺好きの息子にはもってこいのお土産でした。ありがとー。チエちゃん。
ここの子どもたちはちゃんと躾けがされていまして、おばちゃんとしてはとても楽でした。(おとなしいって訳じゃないんだよ。パンくずだってこぼすんだよ。)
そして、特に女の子たちが息子とたくさん遊んでくれまして、とてもありがたかったです。
女の子ってのは、自分より小さい子の面倒をみたくなる本能があるのかなー?と、思いつつ子どもたちを眺めてました。
そして、今日の午前中に師匠の畑で野菜を採らせてもらい、その足でみんなで川に行きました。
今日は暑かったからね~~。師匠のところで休憩している時から「川~~。川~~。」と子どもたちは呪文のように呻いてました。
カイチくんちの子どもたちは川が大好きなのです。
というのも、カイチくんが「川を見たら飛び込まんくてどーする。」という人なので、きっと家訓なのでしょう。
アキオも素っ裸で川に浸かって、途中からスイッチが入ってました。大喜びで水遊びしてました。
背中とお尻のアセモも治りそうだわ~。
さて。
この子どもたち、上は小6下は小1なのですが、家で「アキオはもう歩けるようになったかな?」とお母さんに聞いた時に、「アキオはね、病気だからまだ歩けないと思うよ。」と教えてもらったんだそうです。
でも、病気のことを聞いてはいけないと思っていたのでしょう。自分たちからは質問してきませんでした。
それでも、「アキオはいつ頃歩くかなー?」と、何度も聞いてくるので、「アキオはね、病気だから普通の赤ちゃんよりちょっと遅いんだよー。」と答えてあげました。
すると、「うん…。お母さんがね、そう言ってた。アキオはどんな病気なの?」と、真剣に聞いてきたので、こちらも真剣に答えました。
「○○(上のお兄ちゃん)なら、細胞って分かるかな?」
「うん。分かる。」
「人間の身体って、たーーくさんの細胞からできてるんだけどね、その細胞の1つ1つにね、ヒモがあるんだよ。普通の人はそのヒモが46本なんだけど、アキオは最初っから47本だったの。そのせいで大きくなるのが遅くなっちゃってるんだよ。」
「えーー?じゃあ、45本ならどうなるの?」
「45本だと、お母さんのお腹の中で大きくなれなくて死んじゃうよ。」
「えーーーー?じゃあ、私は?」
「△△は46本だよ。」
「私は?私は?」
「□□も46本だよ。」
「良かったー。でも、なんでアキオは1本多いの?」
「そうだねー。たまたま偶然なんだよ。1000人に1人、そうやって1本多くなっちゃうんだなぁ。アキオは大当たりだったんだね。」
「そっかーー。アキオは大当たりなのかー。」
子どもたちに説明するのは、なかなか大変なのですが、お兄ちゃんが続けて聞いてきました。
「でも、いろんな病気になる子もいるんでしょ?」
「うん。心臓に穴が空いてたり、耳が聞こえなかったりね。」
「アキオは?」
「アキオは大丈夫なんだよ。」
「良かったね~~~。アキオは大丈夫なんやね~~。」
妹たちは単純に喜んでくれましたが、お兄ちゃんはまだ何か考えているようでした。
「アキオは背も伸びないの?」
「うん。あまり大きくならないと思うよ。」
「そっかー…。」
「勉強もね、あまり得意じゃないと思うよ。とても難しいと思う。」
「えーー?それは可哀相やん。」
「ううん。可哀相じゃないよ。アキオはちっとも可哀相じゃないよ。」
「…んー。じゃあ、俺が勉強教えてあげる。俺、教えるの上手なんだよ。」
「おお。そっかー。んじゃ、頼むね。」
「うん。ちゃんと病気じゃない子と同じくらい何でも(勉強が)できるようにしてやる。」
「ありがとね。」
かわいい子どもたちです。
でも、小6にもなると『勉強できない』=『可哀相』になるんだなぁ、と、ちょっとした発見をした気分になりました。
私が小1の時、クラスに障害児が1人いました。
脳性マヒの子でした。
小1でも分かるんです。この子は普通じゃないって。
すると、どうやって接していいか困る時もあるけれど、それでもみんなで気にかけて、それなりに世話をしたりするようになるんです。小1でも、です。
あの時、彼に対して「可哀相」という気持ちがあったかどうか、定かではないのですが、多分、あまり「可哀相」とは思ってなかったような気がします。
あの姿の彼が、彼であるということをそのまま受け止めているような感じでした。
幼いので、何も考えてなかったと言えばそれまでですが、小さな子どもだった自分に敵わないところだよなぁ、と思います。
んんー。あれが小6の時だったら……。
多分、私も「可哀相だから、お世話してあげなきゃ。」と思っただろうなぁ。
息子のダウン症ということに対して、息子自身または私達親に対して、同情とか憐れみとかの気持ちを持ってもらうことについて、あまり抵抗もありませんし、そう思ってもらえるのはありがたいと思います。
私だって、アキオよりずっとずっと重い障害を持った子どもを見ると、親さんは大変だろうなぁ、と必ず思いますから。
それに、同じダウン症であっても、合併症の話を聞くと、「あー。アキオは重い合併症がなくで良かった。」と必ず思いますし。
でも、本当は誰かと比べて良かったとか可哀相だとか大変だとか、そーゆーふうに思うクセが消えていって、子どもの頃のように「ありのままのその人」を受け止めて、それでいて必要なら手を貸してあげる、ということが、みんなが自然にできるようになるといいんだろうなぁ、と思いました。
なんでも過剰に想うということは、闇を作るからなぁ。
無為自然、ですな。
と。
書いててふと気がついたんですが、「親にちゃんと愛されていない子」や「理不尽なことをされた子」(戦争とかいろいろね)に対して、私は強烈に「可哀相」って思っちゃうんです。
これも、あまり過剰だと、その想いが怒りになるから、「本当の深い愛」で観ることができるようになるといいんだろうなぁ~、と思いました。
今の私レベルでは、ちょいとむつかしいなぁー。