トイレ様をピカピカにした、と以前書きましたが、浄化槽に種菌を投入した後もニオってたんです。
なーんかニオう。
ということで、旦那さんにウォシュレットを以前よりさらにさらに分解してもらい、私がスチームクリーナーで残っていた汚れをキレイに落としました。
男性諸君。ウォシュレットのトイレの場合は、立ってオシッコしちゃアカンよ。
思ってるよりも奥の方まで汚れるから。
(名古屋で使ってたウォシュレットはキレイなもんでした。旦那さんが座って使ってくれてたのですよ。)
ここまで分解してキレイにしたから、もう大丈夫だろう…と、張り切って旦那さんに取り付けてもらったんですが……。
なんと、漏電しちゃってるよ……。
とほほほ。こりゃ使えんがね。
ということで、結局、Kホームセンターで安売りしていたウォシュレットを買いました。(名古屋で使ってたのは、旦那さんの実家にあげちゃったんで…。)
寒い中、頑張った私の努力は報われずにションボリ萎んでしまいました。
けどさ、なんかさ、トイレをキレイにしようという自分の努力そのものには満足しておるのですよ。
しかし。
まだニオうんです…。
なんてーのか、変なニオイなんです。
壁の掃除で使った薬剤のニオイなのかなー?と、旦那さんは言うのですが、壁も1度スチームクリーナーかけてるしなー。足りないのかなー。
確かに壁に消毒用アルコールを噴霧するとニオイが緩和されるんだよねぇ。
あああ、まだまだトイレ問題は続くのであります。
さて。
今日は名古屋から友人家族(ユウスケくん、ユウスケ母、ユウスケ父)が遊びに来てくれました。
師匠の苺畑で苺狩をするためです。
苺も採って、野菜も採って、満足な1時間半でありました。
そして、男性諸君(アキオ以外)は畑に種芋の植えつけに行きました。
ユウスケくんは、アキオのミニカーを1台持って畑に行ったのですが、畑にミニカーを植えてたそうです。見たかったなぁ。
ユウスケ母は会社時代の友人であり、お祈り仲間でもあるのですが、ユウスケ父はどっちかって言うと神様を信じてない人なんです。
信じてないというと語弊があるかもな。んー。肌感覚で神様を感じられないので、自分には神様が存在するとは言い切れない、という感じなのかなー。
そんな彼なので、嫁さんの神様話しは聞いていてもピンと来ないので、そうそう聞いてられんわけです。(←嫁はこれがちょっと寂しい。)
それでも、嫁さんの信心や行動を規制することはしないのです。他人を尊重してるんですね。素晴らしいですね。
そーゆースタンスの彼ともいろいろ今日は話しをしたのですが、彼は「自力」の人だということがよく分かりました。
不安を取り除き、安心を得たい。
しかし、その安心を得るためには、自分でできるかぎり努力をしなくてはならない。
もしかしたら、自分もいつかは「他力」になるかもしれないけれど、今は神様に頼ることはしたくない。
そんな感じのことを話してくれました。
おお、と思いました。
それは、彼の考え方そのもののことじゃなくて、今の日本人の多くが、同じように考えているのかもな、と思ったんです。そして、ちょっと前の自分も。
で、おお、と思ったのです。
自分で自分を幸せにする、自分で問題を解決する、自分で困難を乗り越える…。
私たちは子どもの頃からそうやって努力していくことが大切なことだと教えられてきているので、人生は自分で切り拓くものだと思い込んでいるんですね。私もそう思い込んでいました。
確かに、努力は必要です。必須です。
でも、「自分だけ」で人生を切り拓くなんてことは不可能だと、今の私には思えるのです。
いつもいつも、受胎した時からずーっと護ってくれている存在があるからこそ、自分を幸せにすることも、問題を解決することも、困難を乗り越えることもできると、今の私には分かるのです。
私たちは、常に愛され護られ、導かれているんです。
なのに、自分で眼を閉じてしまって見ないだけなのに、闇の中にいると思い込んでしまっているのです。
闇の中にいると思うから、不安になり、安心を得られないのです。
不安な想いは不安な現象を生じさせます。
「神様」は「自然」そのものであり、それは「厳然とした理」です。容赦ありません。
時間を隔てて、想いは現実を生じさせます。それが理だからです。
その時間を隔てて現れた現象が過去世からのものが多いので、理不尽だと思うことが多いのです。全て自分に返ってきているだけなのに、です。
だから、安心立命は、神様への「本当の」帰依しかないのです。(もちろん私にはまだ出来ていない。)
神様は容赦ない理でもあり、無限なる慈愛でもあります。
その慈愛の光は常に降り注いでいることを、眼を開いて思い出せばいいのです。
不安は、神様から離れた心が生み出すものなのですから。
そんなわけで、自分の努力で安心立命を得ることは、非常に難しいのですね。
いわゆる仙人のようになるとか、ある1つの道に精通し「つきぬける」とか、そーゆー並々ならぬ修行が必要で、そんな方法で一般人が普通の生活をしながら到達できるものではないのです。
だから、「自力」の人は山の中でキツい修行をしたりするわけです。
ゆえに、「南無阿弥陀仏」などの「他力」の道が、先達によって開かれたわけです。
近道を教えてもらったようなもんですな。
しかし、だからと言って、私はユウスケ父のような「自力」を否定するつもりはありません。
というか、それも必要だな、と思うのです。
その魂には今生ではそれが必要だから、そうするんですもん。
ただ、「頑張れ。頑張れ。自分の力で人生を切り拓くものだ。不安は克服するんだ。」としか、大人が子どもに教えられないという、今の日本の現状が、ちょっとなぁ~~、と思えるのです。
できれば、もっと霊的に目覚めた人が増えて、みんな神様の慈愛の光に包まれているんだよ、ということが当たり前のように語られるようになったら、人々はもっと楽に楽しく、そして正しい方向に向かって努力できるのになぁ~、と思っちゃうのです。
無限の慈愛が無い(と思い込んでいる)状態で、自分の力だけで人生をなんとかしようとして、何とかなるならいいけれど、何ともならない時が大問題ですもの。
その時の心はまさしく闇の中で、自分を傷つけるか、他人を傷つけるか、のどちらかですから。
マザー・テレサも言ってたでしょ。
「あなたは愛されているのですよ。」