お時間、あります?
なければ、ゆっくりできる時間がとれた時にまた読んでください。
読む記事が多いので。
では、お茶を用意して、どうぞ。
まずは、こちらを読んでください。
http://anond.hatelabo.jp/20130903002317
この記事の中で紹介している記事も全部読んでくださいね。
さらに、この「低学歴の世界」という言葉は、私は以前こちらの記事で初めて読んで、申し訳ないけれど確かにそうなんだろうな、と思ったものでした。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
ここまでで、けっこー時間かかったと思いますが、
「ああ、そうだよねー。低学歴の世界と高学歴の世界ってあるよね。」
と思った人もいれば、
「うそー。そんなことってあるのー?信じられないー。」
と思った人もいれば、
「自分の周りって低学歴の世界じゃん。」
と思った人もいるかと思います。
いろんな感想があるかと思います。
私も旦那も、どっちかと言うと高学歴の世界の住人だと思います。
思い返してみても、DQNな子が友達の中にはいませんでした。
旦那は、ちょっと変わった人で、小・中でDQNな子ともフラットに付き合うことができたらしいんですが、私は明らかに棲み分けができてきました。
なので、私は上記の記事にある「低学歴の世界」の人のことは真には理解できないだろうなーって思います。
でも、そうい世界がある、ということ自体は、この数年で理解することができました。
DQNの子の親はDQNだということを。
そういう世界があるということは、私にとってはフィクションでした。
でも、少しだけではあるけれど、それがノンフィクションであるということが分かってきたのです。
不惑の年を過ぎてから、ですけど…。
棲み分けが進めば進むほど、向こうの世界のことは見えなくて理解不可能になっていくものだと思います。
そうなると、ネットでそのお互いがふいに出会って、「なんじゃそれー!」となってもおかしくないわけで、炎上というカタチになって当然なんでしょうね。
でも、こういうことがあったおかげで、「向こうの世界のことも語ることができる人」の言葉を読むことができ、今までとはちょっとだけ違った視点も……ほんとーにほんのちょっとだけだけど、得られることができたのは良かったな、って思いました。
低学歴の世界が「今だけを楽しみすぎる弊害」を持つのなら、
高学歴の世界は「将来ばかり見ていている弊害」を持つわけで、
やはり「おバカになって今をとことん楽しむ」ことも「将来を見据えて必要な努力を続ける」ことも、どちらも大切なんですよね。
自分もそのバランスが取れていなければ、子供にそのバランスの取り方を教えることができないですもんね。
親の在り方って、ほんとに重要です。
と、書いたところで、
「おバカになってとことん楽しみ」ながらも、「必要な努力を続け」ている7人の男子の顔がパッと浮かびました。
ふふふ♪
88888のなんちゃってチャネ絵……その3
りゅーらさんのところでプレゼント企画やってますよ~♪
こちらです。
http://tiaracrownryura.blog63.fc2.com/blog-entry-257.html
……私は王冠がいいなぁ。
でも、今回はエントリーするのはやめときます。
他の誰かのところに行くべきかなーって思うので。
88888のなんちゃってチャネ絵…その2
こちらです。
miuさんの絵です。
絵が届いたとのお知らせと一緒に、このようなご感想もメールに書いてくださいました。
第一印象は、ぎくりとするほど「これは私だな」と思いました。(こんなに可愛くはないですが ^^;)
強がっている、警戒心の強い子供。。
押さえ込んでる? なにかもっと解放したほうがいいのかな…とも思ったり。
親友にも旦那にも「ドライだよね」と言われるタイプの人間です。
人も好きだし、愉快なことも好きなんですけどね(^^)
もっともっと感情を出した方がいいんでしょうね。
描きながら、
「ニヒルな子やなー。」
と思ったんです。
どうなんでしょうね。
「ドライ」であることは、私は悪いことではないと思うんです。
感情が全く無いとか、相手の感情を全く理解できないとか、共感する力がさっぱり無い……などであれば、それは人間としてこの地球で生きていくのにどえらい支障があるでしょうし、周りも迷惑でしょうけど、
そうではなくて、感情に振り回されることが非常に少ないという意味だとしたら、それは長所とも言えると私は思うんです。
もちろん、何かのトラウマやブロックがあって、感情を無意識のうちに抑え込んでしまっている状態ならば問題と認識すべきでしょうけど、
もともとの性質がドライだというのなら、やっぱりそれはそれで個性としてアリだと思います。
他人の「そうは言っても…」って部分をバッサリ切ってしまわなければ、アリだと思うんです。
逆も然りで、めっちゃウエットな性格というのも、それはそれでええんちゃう?と思うんです。
自分の感情に振り回されてグルグルしながらも、さざ波から巨大な波まで、いろんな「感情の波」を出しながら「世界」を探求してるんやろうなーと、めっちゃウエットな友人を見てて思いますし。
その場合も、他人に迷惑をなるべくかけない、というのが前提になりますけどね。
多分……ですけど、
トラウマやブロックなど、癒されるべき何かがあっての「今の自分の在り方」の場合、その在り方をしてることがものすごくしんどいんやないかなー?と思います。
なので、そういうことも考慮しつつ、自分ってものを探っていくことって大事なんやないかなー、と思ったりします。
私はのび太が好きじゃない。
今、我が家でヘビロテされております。
「たすけてドラえもん」
http://www.youtube.com/watch?v=VM_nAa5j3jw
ぜひとも聴いてください。
私はのび太が好きじゃありませんでした。
子供の頃からずーっと。
すぐに「ドラえもーーん!」と泣きつくところがほんっとにイライラしちゃって、なんだこの男子は?ってなもんです。
この歌の中でものび太は、自分は何もできない、自分をどんどんキライになっちゃう、と言ってますが、
それを聞いていて、「のび太だからな。」と子供の頃の私なら思ったでしょうけど、今の自分にはちょっとばかり胸がチクっとしました。
まだ20代の頃だったかな。
冗談で弟が私のことを「役立たず~。」と言いました。
もちろんこちらも冗談で「なんだとー?!」と切り返しましたが、妙に「役立たず」という言葉に反応している自分がいました。
「何もできない」
というのは、私にとっては恐ろしいことでもあるような気がします。
どんなことでも「できる」か「できない」かの違いは、ものすご~く大きいと、意識的にも無意識的にも思ってる自分がずっといるのです。
で。
昨日ですが、本屋でつい買ってしまいました。
鏡リュウジさんの2014年の山羊座という占い本です。
その中に、
「どんな小さい部品でもその役割がきちんと機能していて、トータルで見たときに、細部まで完璧に作り上げられているような社会に生きるのが山羊座の夢。」
「だから自分がこの社会の中で、重要な役割を果たせるようになりたいと願うのです。自分を生かせる道をいつも探していて、それが見つかるまでの間は、あらゆるものに興味を示します。」
とあり、正直なところ苦笑いをするしかありませんでした。
そりゃ、のび太が好かんわけだー。
でもね。
「勝ち負けばかりの世界」で、知的障害者である息子を授かったというのは、そんな山羊座の女な私にとっては、ものすごーいインパクトになってます。
人生って面白いもんですなぁ。
そんな息子が先日10歳になりました。
息子、今日も19時からのドラえもんを楽しみにしております。
ドラえもーーーーん!
そんな選択ができたらいいな、と思う。
まず、ゲッターズ飯田さんのこの記事
http://ameblo.jp/giida/entry-11601396061.html
を読んでください。
母方の叔母が、48歳の時に死にました。
入院して、もう意識が無く、集中治療室みたいなところにいた叔母に(オカンたちと交代で)付き添っていた私のことを、叔母の娘だと思った方(←とある患者さんの付き添いの方)が、
「人間は病気で死ぬんじゃないんですよ。寿命で死ぬんですよ。まだお母さんはお若いから、きっと寿命はまだあるだろうから、あきらめちゃダメでよ。」
と話してくれました。
「ありがとうございます。」と返事しながらも、私は
『ああ、じゃあ、ちーちゃん(←おばちゃんのことをこう呼んでた)は死んじゃうんだろうな…。』
と思っていました。
なぜなら、叔母は時々、
「私は48歳で死ぬんだって。」
と笑って言っていたからです。
占い好きの叔母が、何かの占いでそう言われたらしいのです。
そして、叔母は占いのとおり、48歳で死にました。
しかし、実家の近所にある喫茶店のママさんは、これまた占いか何かで寿命が○歳だと言われ、
そんな早くに死ねないからと、仏様のご加護をいただくために忙しい毎日なのにこまめにお寺にお参りを続けてきたそうです。
先日、半年ぶりに実家に帰ったのですが、ママさんも相変わらず元気そうでした。
ゲッターズ飯田さんの記事を読みながら、叔母のこととママさんのことを思い出しました。
多分叔母にも、生きようと思えばその瞬間を乗り越えて生きられる道はあったと思うのです。
死ぬことがダメなことで生きることが良いことだと決めつけるというのもどうかと思いますが、
とりあえず、叔母にもオヤジさんにもまだまだ生きてて欲しかったので、そこを乗り越えて生きる道を選択できるものならして欲しかったよな~、なんて、残された方としては思ったりします。
ただ。
叔母とママさんの違いは、ものすごく分かりやすいですが、
自分だったら、ゲッターズ飯田さんのような選択ができたらいいな~、と思います。
運命を受け入れつつも、自分が他人のためにできることに力を尽くす、という選択です。
叔母は、ただ受け入れただけ。
ママさんは、自分のためにできるかぎりのことをした。
けれど、できることなら、ゲッターズ飯田さんのような選択のできる自分でありたいなー、と思いました。
なかなかできないよなー、って思いますけどね。
88888のなんちゃってチャネ絵…その1
なんちゃってチャネ絵を2枚、それぞれの方に発送しまして、より遠くの方の所に届いたと連絡をいただきまして、
多分もうお一人のところにも届いてるハズなので、2枚ともアップします。
こちらは、ギリシャとかローマとかの青年で、
故郷から離れていた間に、街が戦争なのか自然災害なのか…分かりませんが、とにかく焼け野原になってしまい、
戻ってきた時にその光景を見て、呆然と泣いている………という感じがしました。
それをご本人にお伝えしたら、どうやらいろいろ納得されることがあったようで、長文のお返事をいただきました。
う~~~~~んなるほどなー、と思いました。
こちらの絵は……描き始めようとしたところで、なぜかいきなりこの歌が頭の中でスタートしました。
http://jpv.blog44.fc2.com/blog-entry-247.html
「他の人を愛しても、他の人でしかありません」
という部分が特に深く響いてきました。
誰か大切な人を失った……けれど、生きていくためにまた誰かを愛した女性だったのかな、と思いました。
「幸せだと感じること」と「人生を楽しむこと」は、同じコトではない。
てなわけで、前の記事の続きになります。
じぇいど♪さんの「大きな幸せは小さな幸せの積み重ねなんだよね」という記事を読んで、お?と思ったんです。
私もね、小さな幸せの積み重ねがあって、自分は幸せだよなー、と本気で思ってるんです。
私は、幸せ。
小さな幸せの積み重ねを日々感じていて、それに嘘は無い。
でも、「この肉体で、この人生を楽しんでるか?」という問いには「YES」と即答できない。
これは、「幸せであること」と「人生を楽しむこと」は同一ではない、ということだよな、と気づいたのです。
いやいや一緒でしょー?と思う人の方が多いかもしれないけれど、私の中では厳密に言えば違うようなのです。
すると、ふと最近読んだとあるツイートを思い出しました。
野口晴哉botにあった故・野口先生の言葉です。
気を集めると体のはたらきが活溌になってき、元気が出てくるが、気が抜けるとやることもやれなくなってしまう。
やらなくてはならないと思い乍らやれないのは、気がない場合だ。
やる気があれば、自ずから力も出てくる。
こうして、気は人間の体を動かし、人間の集まりである社会をも動かしてゆく。
私は「やりたい」と思うことでさえ、「よっこらしょ!」と気合を入れないとやれないような感覚があります。
なので、「やりたいこと」すら「(頑張って)やらなければならないこと」みたいになってくるのです。
20歳になる直前から身体の塩梅がおかしくなってしまって以来、だんだんとそんな感覚になっていき、
第2子である娘を産んでからは、さらにその感覚が増してしまったな…と気づきました。
20代の頃から何かと漢方薬にはお世話になっているのですが、処方される漢方薬を思い出してみると、その多くは見事に「気虚」に対するお薬でした。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yama.ph/type-kikyo.html
もちろん、舌もギザギザしてます。
思いに反応してパッと身体が動けるほど、私の身体には「気」が十分には足りてないのでしょう。
だから、なにもかもが「(気合入れてなんとか)やらなければならないこと」のような感覚になり、楽しむという気持が相殺されてしまうことが多かったのかもしれません。
(「好きだからやりたい」と身体が自発的に動くのって、本当に仲良しの友達と会う時と関ジャニ∞関係のことくらいかもしれない……。あわわわー。)
と、いったところで、今日は朝イチからおとーちゃんが子供たちをプールに連れてってくれたので、1人の時間ができたためにMAPのレギュラーセションをしたのですが、
いろいろ質問してみたところ、「気を取り込む」ところに問題があるのではなくて、「どこかしらからエネルギーが漏れてる」のが問題だと言われました。(←Oリングを使ってます。)
それは、チャクラではなく、エネルギー管らしいです。
出産のダメージで第2チャクラがちょいとイマイチになってるのとは別問題だそうです。
なので、
WBHの医療チームにそのあたりを良い塩梅にしてください……とお願いはしました。
しましたが。
「エネルギー管や第2チャクラに問題があるから、人生を楽しんでいるという感覚に届かない」
という方向だけじゃなく、反対の方向もあるよな、と思ったんです。
つまり、「人生を楽しんではいけない」みたいなブロックが潜んでいて、それが今の状況を引き寄せている、という方向です。
なぜなら、なんとなーーーくそんな類のブロックが隠れているような感覚があるからです。
もしかしたら、何らかの罪悪感から自分を罰するための想いだったのかもしれないし、
もしかしたら、修行系の苦労してこそ…みたいな信念があったのかもしれないし、
とにかく何か「もう役に立たなくなったモノ」がブロックと化してるような気がします。
まぁ、そこは地道に探していくしかありませんね。
さて。
野口先生の言葉を、他にも紹介しておきます。
自分の欲する方向に心を向けさえすれば、欲する如く移り変わる。
人生は素晴らしい。いつも新鮮だ。いつも活き活きしている。
大きな息をしよう。背骨を伸ばそう。
まず自分から動くことだ。自分から出発することだ。
しかしその意欲も、背骨が弱いと生じない。
背髄へ息を通すと自発的に動きだし、世界は為に一新する。
エネルギー管と背骨は別ものだけど、身体を縦に貫くものであるというところでは同じように感じます。
どっちにせよ、この「縦のライン」ってのが私は弱いってことだよな~、と思いました。
「あさイチ」で紹介されてた筋肉を鍛える運動をちまちまやってますけど、そういう努力も続けなきゃね、と思っております。
人生を楽しんで生きているか?という問いに、YESと即答できない。
MAPセションをコツコツ続けていて、あるテーマが浮かび上がってきています。
私は、人生を楽しんでいるのか?
この肉体を受け入れ、人生を楽しんで生きているのか?
というものです。
詳しく経緯を書くとどえらいこと長くなるので割愛しますが、セションでこのテーマが徐々に浮かび上がってきたところで、それに関連するようなブログ記事を続けていくつも読むことになったり、
友人の真似をしてひいてみた「あなたの今日のオーラソーマ」で「守護天使」が出たり。
http://artbeing.com/aura-soma/reading/tarot-044.html
「あなたの魂は、自分を信頼すること、自分らしく生きることに、心を開くこと、そしてくつろぐことからあなたのエネルギーが自由に流れ出すことを思い出して欲しいと願っています。」
だなんて、いたたたたーってなりました。
ただ好きなことをして自分勝手に生きる…という意味では無いことくらいは分かりますけど、
果たして自分はほんとうに楽しんで生きているのか?と問われると、言葉に詰まる自分がいました。
同じことの繰り返しの日常に飽き飽きしてるとか、そういうことでもないし、
そんな日常をありがたいと思っているし、フルタイムで外で働いていないから社会とのつながりがどーのこーのなんてことも思っていないし………
そういう枠組みでの問題じゃないんです。
多分、もっとシンプルな、もっと深い部分での話だと思うんです。
多分、「理性」とか「論理」とかと拮抗して、押さえ込まれやすい部分のことだと思うんです。
ほんとは、拮抗するものじゃないんだけど、何か不要なモノがややこしくしてるような気がします。
そう思うと。
妊娠と出産は「この肉体をフルに使って人生を楽しむ」という状態だったように思います。
そして、関ジャニ∞のライブの時間もそうなんですよね。
「この肉体をフルに使って人生を楽しんでいる時間」は、純粋な喜びを感じている瞬間の積分みたいな感じだよなぁ……と、感じます。
とりあえず今は、関ジャニ∞にめっちゃ助けられてるよな~、って、しみじみ思います。
参考までに、これを貼り付けておきます。
http://www7.plala.or.jp/bumboo/amulet/f_ca.html
私の持病の1つが、第1チャクラの弱さが原因なのかなー?とずーっと思ってたら、セションで
「第2子出産のダメージで第2チャクラがそれまでよりちょっと弱ってしまった(?歪んだ?)せい」と(何度訊いてもそう)言われて、
そこから「人生を楽しんでいるか?」というテーマが浮かんできたんですわ…。
なかなか根っこが深そうです。
(※ …と、次の日記に続いた。)
独裁者の統べる国は不幸だというのは、思い込みなのかもしれない。
先週のことです。
関ジャニ∞の3人が出てるテレ東の番組を見ていたら、トルクメニスタンを取材したとやってまして、
その時に、世界各国の報道自由度のワースト3が、
エリトリア、北朝鮮、トルクメニスタン
と紹介されてたんです。
え?
北朝鮮より報道の自由度が低い国があるの?
エリトリアってどこの国?
と興味をひかれまして、早速ぐーぐる先生に調べてもらいました。
すると、こんな記事をすぐに拾ってくれました。
ぜひ読んでください。
麦茶でも用意して、じっくり。
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2012/05/post_6229.html
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2012/05/post_a391.html
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2012/06/post_70ee.html
番組でも、トルクメニスタンの国民は、北朝鮮の人たちのように大統領を褒め讃えまくっていて不自然ではありましたが、
でも、北朝鮮とは決定的に違うことがありました。
それは、トルクメニスタンでは豊富な地下資源で得た富は国民に還元されている、ということです。
ガスや水道はもちろん無料。
教育費も無料。大学も正規の試験さえ受かれば実質無料だとか。
家族を大事にする国民性で、夕方になると街は閑散とするそうです。みんなおうちに帰って家族と食事をするから。
取材班にはりついていた政府の人も、実はすごくフレンドリーだったりして、あれれ?って感じ。
国営放送はちっとも面白くないので、国民のほとんどがおうちにバラボナアンテナつけて、海外のテレビ番組を見てるとか。
独裁者が仕切ってる国だからって、国民がちっとも不幸そうじゃないんです。
すると、ちょうどこんな記事も見つけました。
http://www.tkfd.or.jp/news/today/1_20061225_1.shtml
ニヤゾフ大統領というのは、トルクメニスタンの前の大統領のことです。
あー、そういうものなのかもなー、と思いました。
独裁者本人が賛美を強制するんじゃなくて、周りが気を利かせせやってるうちにどんどんおかしなことになっていくものなのかもな、と。
「独裁」はダメ、「民主主義」でないと先進的な国ではない、というのは、ほんとうにそうなのかな?と、考えさせられました。
リビアも、今は治安がすごく悪化しているとか。
カダフィが治めてた頃より殺人事件が5倍になったらしいです。
「国」とは何か?
「良い国」とは何か?
表現の自由が規制されていたとしても、もしもその国の治安がとても良くて、生活水準が高いとするなら、それも「良い国」のカタチの1つなのではないか…?
ほんとうにいろんなことを考えさせられました。