今日はエイプリルフールですね。
嘘の日なので、嘘について気づいたことを書いておこうと思います。
私は嘘つきです。
その場を乱さないように嘘をつく……と言えば聞こえはいいですが、嘘は嘘です。
「嘘も方便」なのも分かっていますが、「本当のことを言う勇気が出ない」だけなのだと思います。
自分の意見を言う勇気が無かったり、いい人で居ることをやめられなかったり、非難されることが怖かったり…と、そんなところです。
何故なのかなー……と、地味にずーーーっと自分に対して思ってはいたのですがさっぱり分かりませんでした。
しかし先日、「あ!」といきなり分かりました。
子供の頃のことです。
父親の会社の取引先が倒産し、父親の会社も倒産しました。
それから借金返済催促の電話が自宅にもかかってくるようになりました。
すると、父親が自宅に居るのに、子供の私に電話に出て「お父さんは居ません。」と言うようにお願いされるようになりました。
その時、私はイヤだとは思いませんでした。
父親が困っているのを助けることができる自分になっていることが嬉しかったのです。
嘘をつくことが親を助けられる喜びとリンクしてしまっていたのです。
そのこと自体を忘れていたわけではありません。
しっかり覚えていました。
けれど、それが私の本来備わっているであろう「正直さ」を汚染しているとは思ってもいませんでした。
それにハッと気づいたのでした。
親だって凸凹があり、そして必死に生きています。
多かれ少なかれどうしても親の在り方が子供を「汚染」してしまう部分はあるのだろうと思います。
それを嘆いたり恨んだりしても意味が無いので、そこを自分で掃除していくしかないし、それが「学び」の1つなのでしょう。
……そして、私が子供たちの何かを汚染している部分もあるんだろうな、と思いつつ。
鍋底焦げ焦げ
2階廊下の窓際で黄昏ていました。おブ子さん。
さきほど、こんなツイートを見つけたのでRTしたのですが。
「何者かになりたければ、あらゆる犠牲を払って働かなくてはいけない」という説そのものは結構腹に落ちるのだけど、
この説は
「ヒトは何者かになりたがっている」「ヒトは何者かにならなくてはいけない」という隠れた前提まで一緒に買わせようとするが、どちらと言えばこの二つが貧しさの元凶すよ— アイザック (@Isaacsaso) 2017年3月26日
……じわじわキてます。
今週の初めにオカンが泊まりで来たと前回の日記に書きましたが、
岐阜に帰る日に、いつもの自然食品のお店にオカンと子供たちを連れて行きました。
すると、スピの話もできちゃう店主さんに、オカンが自身のオカルト経験などを話したりしてた…のですが、
その話の中で、オカンより霊感の強い弟1号のこともちょっと話に出たりしました。
そして更にNO霊感の弟2号の話もちょっと出てきまして……と、そこまでは良かったんですが、
オカンが、
「息子たちは、『おねーちゃんは可哀想だけど一番頭悪いもんなー。』って言っててねぇ。」
と、言ったのでした。
それは太陽は東から昇って西に沈むことくらい明らかなことですし、弟たちがそう言っていたこともオカンから何度も聞かされてますし、今さらそんなこと言われてショックを受けるなんてことも無い…ハズだったのですが、涙がうわ~っと出そうになったのでした。
ヤバいヤバい!と、必死に涙を押さえ込んだのですが、ちょっと目がうるっとしてたと思います。
それでも、春はちょいちょい急に目がショボショボしてうるうるっとなることがあるので、そんな感じに見えるかな?と思って、何食わぬ顔をしてました。
私ってば、なかなかココから抜けられないんだな~…。
と、会話を続けつつ、そんなことを考えていました。
平行世界の「頭が良くて、好きな研究を続けている私」を垣間見たことで、そのあたりはかなりスッキリしたような気がしていたのですが、まだまだぐつぐつに煮詰まった焦げは残っているんだな、と、感情が動くより先に涙が溢れそうになる、という反応で理解しました。
(感情は動いてないのに涙が溢れそうになったので、どえれ~ビックリしたがね!)
何者かになりたがってる自分がまだまだアチコチに居るんやろうな~……と、先のツイートを読んで思います。
じわじわキます。
自分で思ってるよりも、うんと辛かったのかもしれんですね。
そして、10代20代の私は「受け入れる」んじゃなくて「あきらめる」しかしてなかったのかもしれんですね。
だから鍋底は焦げ焦げ。
かなり焦げをこそげ取ってきたつもりだけれど、まだまだ残ってるってことですね。
(実はですね、今年の冬に愛用の鍋を盛大に焦がしたのですが、重曹を混ぜた水を入れて毎日ストーブにかけていたら、ようやく焦げが全部取れたところなので、そのうち自分自身の焦げもそのうち全部取れると信じることにします~。)
でも、そういう「自分ではよく分かっていない自分」を知るのはとても興味深いです。
一生かけて自分を知り続けるのでしょうね。
ほんとうに興味深いです。
ご供養やらお参りやら…な春休み前半となっております。
息子が春休みに突入し、
1週間遅れて娘が春休みに突入しました。
なんやかんやあり、ブログに書いておきたいこともイロイロあったのですが、ツイッターでぼそぼそつぶやいて終わりにしておりました。
日曜日から岐阜のオカンが我が家に遊びに来てくれてました。
1年ぶりだったので、子供たちが大喜びでした。
しかし、二泊三日のお泊まりはあっと言う間に過ぎ、オカンがさきほど帰路につきまして、子供たちはションボリしております。
最寄り駅に送っていく前に、喫茶店でケーキを食べて、
さらに一宮にお参りしてきました。オカンと子供たちと一緒に。
実は昨日もオカンと娘と3人でお参りに行ってきました。
その時に、里宮の本殿だけではなく、縁結びの御社と、その隣にある「本宮山参拝所」にも連れていきました。
神社の本宮が「本宮山」にあり、いつもお参りしているのは「里宮」なのですが、その里宮の中に本宮山参拝所があるのです。
鳥居があって、その向こうに若い木があるだけなのですが、この鳥居が次元の扉なのねー、なんていつも思っておりました。
なので、オカンに「これは次元の扉やで~。ここくぐると本宮山なんやで~。本宮をお参りできるんやで~。」と、冗談っぽく説明したところ……霊感の強いオカンが「ひー。ぞみぞみする~。足元からぞそぞぞーっとくる~。」と言い出しました。
何か強く感じてたようです。
すると、いつもなら鳥居をくぐると「ぽやん」とした感じになるだけの私までが足元からぞぞぞーっとしてきまして、「あ~、同調しちゃったな~。」と思いました。
と、まぁ、そんなこともありーので。
実は実は、
オカンが来た前日に、浜松のお寺さんに家族4人で行ってきました。
九州に住む弟1号の代理で、ご先祖様の水子供養をしてきたのです。
今年の2月……我が家ではインフルエンザ騒動真っ只中の頃に、オカンと弟が久々に豊橋の霊能師の先生のところに行きまして、そこで父方の祖父母の水子の存在を発見してもらったのでした。
弟とずーーーーーっとうまいこと共存してたそうなのですが、弟の変化に伴ってその存在が見つけやすい状態になったようで、ようやく見つけ出してもらった……という感じだったようです。
先生とのご縁は20年ほどになりますが、初期の頃は私と旦那さんで紹介してもらった名古屋のお寺に先祖供養をしてもらいに何度か通いました。
中期になりますと、私と旦那さんが直接ご供養をお願いしに行く、という段階から、私の方ではオカンが、旦那の方ではお義母さんが一畑山薬師寺でもらってきた御札を四十九日間お祀りするという方法でご供養をするようになりました。
すると、ある頃から、先生のところに伺っても供養が必要なご先祖様という話にはならず、さまざまな神様話を聞かせてもらう…というステージにランクアップして行きました。
そして最近になり、久々にオカンがご供養せねばならないご先祖様のことを先生に紹介してもらった浜松のお寺で永代供養をしてもらいました。
ここで、「おお、薬師寺さんの方法から変わったのか~。どんなお寺さんなのかな~。でも、もうお願いすることは無いかな~。」と思ったのですが、弟の代理で行くことになり、私もほんとーーーに久々のご供養の場に立ち会うことになった……というわけでした。
……ああ、そいえば、一番最初に先生のところに行ってお話を聞いてた時に、私に寄りかかってたご先祖様の水子ちゃんたちのうち1人が、先生に見つけてもらえただけで私の腕からひゅ~~~っと上がっていった…なーんてこともありましわ。
「あなたの魂はとてもお人好しだねぇ。行き場が無いご先祖様や水子ちゃんたちに『ここにいたらいいよ。』って許可してるんだもんね。」と、初めて会ったときに先生に言われましたからね……。
私が、じゃないですよ?
私・の・魂・が・お・人・好・し・な・ん・で・す!
困ったもんですな~。
で、ですね。
その浜松のお寺さんはお話がとても上手な方で、これまたいろんなお話を聞かせてもらったのですが、水子には2種類ある、というお話がとても興味深かったです。
生まれてくることができなかった赤ちゃんというのは、『受胎したことだけで修行が完了する(ので生まれてこない)子』と『生まれられない業がある子』の2種類いるのだそうで、供養が必要なのはもちろん後者の場合となります。
というわけで、永代供養してもらったわけですが、お寺さんが、
「これで水子ちゃんは往生しましたよ。あ、成仏したわけじゃないんですよ。成仏なんてなかなかできるものじゃないですからね。往生するというのは、あの世の…そうだなぁ、ディズニーランドみたいなところに行って、そこで修行することになった、ということですね。」
と教えてくれました。
こちらを参照してみてくださいね。
http://www.higan.net/somosan/2011/12/post-13.html
あー、まだ書いておきたいことはあるんですけど、今日はここまでといたします~。
夕飯の準備しないと~。
大天使ミカエルとセラフ・ローズオーラ
お客様からのミカエルご指名で、描かせてもらいました。
前回載せたアップの写真は、これが元絵です。
お客様からのご感想メールの一部を紹介します。
先日、大天使ミカエルの絵が届きました。
ありがとうございます♪
1年以上前にお願いした、大天使ラファエルの絵の時もそうでしたが、届いた絵を開封して見た瞬間、涙がでて止まりませんでした。
心が先に反応しているようです。
今年から、ようやく自分のやりたい道をスタートさせました。
不安と怖れからなかなか腰が上がらず、考えてるだけで行動に移せずにいましたが、何かに背中を押された感があり、やっと1歩踏み出せたんです 。
なので、きっとミカエルがサポートしてくれてるんだろうと思っていたところ、同封されていたメッセージに
『行くべき道の少し前の所から、「こっちだよ。」と促しているような そんな感じの絵になりました。
勇気を出して、その道を進んで行かれる ことになるのかな、と思いました。』
と書いてあったのに驚きました。まさにそうなのですから。
やりたいことの一つに、「エンジェルリンク」のファシリテーターとしての活動があります。
先月、5天使すべての伝授が終了したので、自分へのご褒美として、民絵さんの天使の絵を注文させていただきました。
さ っそく前回の大天使ラファエルの絵の隣に、ミカエルの絵も飾りました。
並べてみると、すごく嬉しくて幸せな気分になります♪
絵を見て涙が出て止まらなかった…というのは、私にとっては最上級の褒め言葉です。
このお仕事をやってて良かった!と心底思わせてもらい、ありがたくてメールに向かって手を合わせたくなるほどでした。
背景が出来上がって、さてミカエルの姿を…と思った途端、背中をこっちに向けて、顔だけこちらに少し振り返っているような、そんな姿が思い浮かんだのでした。
描き終えてみると、道の少し先の方から「こっちおいで。」と後ろでモゾモゾしている子供に言っているお父さんやお母さんみたいにしか見えなかったので、あのようなメッセージを添えさせてもらったのでした。
すると、どんぴしゃりの絵と言葉だったようで、「さすがミカエルだなぁー。」と思ったのと同時に、「ちゃんと通訳できてて良かった。」とホッとしました。
それからですね。
こちらのお客様から、セラフ・ローズオーラの絵は描けますか?というお問い合わせもいただいたんです。
(今すぐというわけじゃなくて、もしいつか頼むとしたら可能かどうか、というお問い合わせです。)
そのメールの文章を読んで、
「あーーーー……。そいえばむかーーし描いたなぁ~~。」と思い出し、画像を漁ってみました。
ありましたありました。
ペラい紙にラクガキ程度に描いたものですけど、エンジェルリンクのファシリテーターでもあった友人が、当時何故か私に必要だと思ったそうで、セラフ・ローズオーラとのご縁をつないでくれたんです。
その時の感覚を絵に残しておいたのでした。
ずーっと忘れてましたが、必要だったんですねぇぇぇ~。
ありがたいことです。
「そもそもお前が実現したい自己って何だよ?」
先日、ミカエルの絵を描いた時に、絵の一部をマクロレンズで撮ってみました。
ひとりで
「ミカエルっぽい!ミカエルっぽい!」
と、ニヤニヤしておりました。
さて。
確定申告の書類も税務署に提出し、やれやれといったところだったのですが、
ここ数日は基本的にもにょーーーんとしておりました。
そういう星回りだったのかもしれません。
そいえば、12日(日)の23時過ぎに乙女座の満月だったようですね。
その翌日13日…って昨日ですけど、昨日の正午ちょい前に「お!」がやってきました。
ここ2年ほど氣乃さん伝授のヒーリングをちまちまちまちま…と続けたことによって…だと思ってるのですが、
自分の中の「ベースライン」みたいなものが少し上がってきたなー、という感覚になっています。
さらに、去年の11月にこじ蔵さんのセションを受け、自分の中にずーっとあった「目立つのが怖い」という過去世由来の不要となった思い込みもそこそこ解消されていきました。
そうなったところで、私のホロスコープに対する月子さんの解釈を再考してみると、どうしても「自己信頼ができていない」というところに行き当たってしまうのでした。
そんなことを考えているうちに、この数日は自分が停滞しているような、そんなもにょーんとした気分になっていったのでした。
すると昨日、とあるツイートが目に入りまして。
それは、子供を通して自己実現するしないの話だったんですが、それを読んで
んでも、それとは別に、
子供で自己実現したくなる、というのは自分にもあったし、まだ払拭しきれてないと思うので、
なかなか厄介なもんやなー、とは思う。— たみえ✡ (@TAMIEYAtamie) 2017年3月13日
とツイートしたんです。
娘がディスレクシアだと分かった時に、私は自分自身に隠しつつもガッツリそういう意識を持ってる、ということを自覚させられたのでした。
そんなことを思い出しつつツイートしてたのですが、はたと問いが浮かんだのです。
そもそもお前(私)が実現したい自己って何だよ?
と。
すると、するするする~~~と、絡まってた紐が解けるかのような感覚になりました。
いやいや。
実現したい「自己」なんて、そもそも無いやん。
信頼すべき「自己」なんて、この肉体の「表層意識の私」としての「自己」には備わってないやん。
つまり、その「自己」である自分を信頼するなんてことは、ハナっからできないことなんや。
信頼すべきは、高次の自分、神なる自分しかないやん。
脳の働きによって表出している「私」なんてのは、実在ではなくて『働き』でしかないもん。
スマホのアプリみたいなもんや。
実在する本体はスマホなのに、1アプリ(プログラム)を実在する自分自身だと、どうしてもすぐに思い込んでしまうんやな~。
で、この『働き』(アプリ)を洗練するために、知識を得て知性を磨く(アップデートする)ということは良いことではあるけど、そうすることで【「私」を信頼に値するもの】へと変えていこうとしてたのが間違ってたんやな。
信頼できないものを信頼しようとしたって、いつまで経っても信頼できるわけないわな~。
自己信頼できてへんのが正解やったんやな~。
でもって、信頼すべきものを信頼しない限り、私の六芒星のエネルギーは回せないままなんやろうなぁ…。
……と、『今まで頭で分かってたこと』が『お腹の辺りまで落ちてきた』のでした。
頭では十分分かってたことなのですが、なーんだこういうことか……と、お腹で分かったのでした。
頭で分かってるのと、お腹で分かるのって、雲泥の差だよね!
は~……、すっきりした~……と、いう感覚になったところで、丁度正午のサイレンが鳴ったのでした。
まるでなんだか1枚脱皮したような、そんな心持ちになったので、近所の神社にお参りに行ってきました。
お腹の辺りに落ちてきてくれました、ありがとうございます、とお礼を言ってきました。
おみくじ(←神様からのお手紙だと思っている)を引いたら大吉でした。
「今はイマイチやと思ってても、ええ感じになるよ~。」というお手紙でした。
そしたらさきほど、こんなツイートが流れてきました。
エゴは、あなたのために何かを決定することはできません。決定権はあくまでもあなたにあるからです。あなたがしっかりすれば、エゴは安心して引き下がるでしょう。もうあなたのために責任を引き受けなくてもいいからです。
— リズ・ブルボー (@from_Lise) 2017年3月13日
ここで言う「エゴ」が「働き」のことで、「あなた」が「神なる自分を信頼している私」だとすれば、その通りだよな~、と思いました。
「人の子よ、ようやく分かったか。」
たみえはマクロレンズを手に入れた!
ペンデュラムに続き、たみえかーさんはスマホ用マクロレンズを手に入れました!
それも百均で!
私のスマホはダブルカメラなのでマクロレンズは使えないかなー、と思っていたのですが、メインカメラの方にくっつけてワイドアパーチャ機能をOFFにすれば使えました~♪
一眼のカメラでもよく接写で撮ってたんですが、もっと手軽にできて楽しいです~♪
↑
これは月子さんにプレゼントしてもらったお気に入りの「時空のトンネル」(FUSION FACTORY) にレンズをべったりくっつけて撮りました。
コレです。
今日はスーパーで釜あげしらすを買ったので、タコの赤ちゃんやイカの赤ちゃんが混ざっていたら撮りたいと思っております!
たみえはペンデュラムを手に入れた!
先日、とある人とおしゃべりをしていましたら、テーブルに置かれてたその方の本の上に水晶のペンデュラムが乗っかってるのが目に入りました。
それまでも、その方のペンデュラムは目にしてたと思うんですが、突然すごーーーく気になり出し、
「ちょっと触ってみていい?」とお願いすると、快諾してくださったので触らせてもらいました。
……すると、動くんです。
わあああああ!となりまして、一気にペンデュラムが欲しい~~!となってしまいました。
今までペンデュラムが欲しいとか、使いたいとか思ったことがほとんど無かったのに、です。
まるでストーブの点火ボタンを押したかのような変化でした。
いきなりボッ!と燃え出した…みたいな。
頭にすぐに浮かんだのは、白魔堂さんのコレでした。
「ミカエルの導き」ですよ!ミカエルですよ!
……しかし、初心者も初心者の私にはこんな強いヤツは使いこなせないよな~、と思いまして、これは断念。
※売れちゃいましたね!
じゃあ、お花ちゃんにシンプルなペンデュラムを作ってもらおうかな~……なんて思っておりました。
で、ツイッターで「ペンデュラムが欲しい。」とツイートしたところ、月子さんから「ペンダントでいいやん。」とリプが来たのでした。
ペンダントか~…。
でも、丁度いい感じのってあったっけなーー?
と、翌日だか翌日だかに思い立ってゴソゴソと探してみました。
…すると、ありました。
伯母の形見の1つに、キューブ型の水晶のペンダントがあったのです。
子供の頃に伯母のところに行く度に、この水晶をせっせと磨いていたくらい私は大好きなものでした。
私が20歳の時に伯母が亡くなったのですが、伯母には子供がいなかったので(ただ一人の姪っ子である)私がアクセサリーをいくつかもらいました。
その中の1つだったのですが、好き過ぎてずーーーーっとしまってあったのです。
チェーンも細いので、切れて失くしたらイヤすぎるし。
というわけで、今日から君は私のペンデュラムだ!と、宣言しまして、使ってみました。
……動きます。ちゃんと動いてくれます。
感動しました。
が。
「これは欲しい答えが出るように、無意識に微妙に指を動かしているに違いない。」
と思う私もいます。
そして、そういう考えを前面に出して質問してみると、これがほとんど動かないんです。
そりゃそうですね。
ダウジングに科学的な説明をしようとは元々思っていないのですが、
それでも「欲しい答え」を求めて水晶を振るのではなくて、質問に対してできる限りニュートラルでいることが大事そうだなー、と思いました。
そこが難しそうです…。
というわけで。
こんなサイトを見ながら練習してみました。
http://dowsing.jp/101/index.html
ちゃんと動いてくれるんですよ!
ちゃんと止まってくれるんですよ!
(や、だから、無意識で指を微細に動かしてるからに違いないんですけど、自分の身体を動かしてるものが何か、なんですよね。ニュートラルであれば、その何かが「エゴ」ではない可能性が高くなりますもんね。)
ずっと愛着を感じてた水晶なので、こうして「使う」ことができるのが、とても嬉しいです。
水晶ちゃんも嬉しいに違いない、と思い込んでおります。
春が来ましたね。
春が来ましたね。
……春はどっちかっちゅーと苦手な季節なのです。
体調が乱れやすいので苦手な季節です。
でも、ちょっとソワソワするような、そんな感じは嫌いではないです。
去年の春は息子が地元の小学校卒業・支援学校中学部入学ということで、寂しさもあり、多少の不安もありましたが、
支援学校へはすぐに慣れて、毎日楽しく通ってくれているので、一年前の私に「予想以上にええ感じやよ♪」と言ってやりたいです。
今年の春は、みなさんにとってどんな春になりますかね。
別れもあるかと思いますが、素敵な出会いのある春になるといいですね♪
出会ってしまったら、仕方がない。
「出会ってしまったら、仕方がない。」
先日、「なみだの分かちあいアジア」というNGOの代表である「りゅうさん」がおっしゃった言葉です。
出会ってしまったので、りゅうさんはずーーーーーっとアジアの各地で大変な思いをしながら生きている人たちのために活動を続けていらっしゃるのだそうです。
多少は知ってることもありましたが、やはり知らないことがいっぱいでした。
危険な場所にも赴いて、現地を見てきている人の言葉は重たかったです。
りゅうさんも言葉に詰まることがありましたし、会を主催してくれたinahoの店長さんは会の早いうちから目に涙を溜めていました。
今回は、特にバングラディッシュのチッタゴン高原における少数民族虐殺についてお話を聞きました。
(良かったらこちらなどを参照してみてください。)
そんなお話を聞いて、知り合いの参加者さんの中には、恵まれてるのにコレといって何もできない自分たちに罪悪感に似たような気持やもどかしさを感じていたようでした。
それこそ、出会ってしまったら仕方がない、のです。
知ってしまったら、そういう気持ちなるのは仕方がないのだと思います。
「自分には関係ないことやし~。」とスルーできるくらいの人なら、あんな会に参加しませんからね。
ですから、そうやって心が強烈に動くというのは、大切なことだと思います。
しかし、やっぱり罪悪感は要らないものだと思うのです。
悲しみや怒りは行動力の源泉となることができると思うのですが、罪悪感はモノゴトのねじれを解消するための行動力を呼び起こすことはとても少ないような気がするのです。
自分を責めるだけで終わってしまうような気がするからです。
ですから、出来事に対して悲しみや怒りを感じてる途中で、それが罪悪感になってしまいやすい人は、まずはそういう自分の中のねじれを解消することから取り組むべきなんじゃないか、と私は思います。
それでも全然遅くないと思います。
と、言いますか、それが結局は一番の近道なんじゃないかな、と思うのです。
私たちはみんな「ねじれまくってる存在」なのでしょうから。
や、しかしほんと、「出会ってしまったら、仕方がない。」という言葉には、深く頷くしかありません。
人生を捧げるような仕事であったり、パートナーであったり、または殺す殺されるという関係になってしまったり…。
良い意味も悪い意味も半々ですね。
でも、どんな「因」を持っていたとしても、それを「果」とするための出会いである「縁」を起動するためには、「自分がどのような言動を選択するか」にかかっているようにも思います。
どんな「縁」が発動するかは、今の自分の在り方そのもので決まるんだと思います。
……って、じゃあいきなり国が内戦状態になって難民になってしまった人たちは、そういう在り方をしてたのか?と問われると、
集団意識の状態でそうだったとも言えるかもしれませんし、そこに生まれたという時点ですでに「縁」が発動してた、とも言えるような気もします。
私たちが今の日本に生まれた、ということも、そうでしょうし。
………って、じゃあ好ましくない「因」の「縁」が発動してしまったら、もうどうしようもないのか?と問われると、
それを完うするしかない、とも言えるかもしれませんし、「その出来事に対してどう反応し、どんな言動を選択するか」を更に問われてる、とも言えるような気もします。
出会ってしまったら、仕方がない。
…ので、まずはそれを受け入れる。
でも同時に、その出会いをどのようなものにしていくのか、の裁量権を与えられてることも忘れない。
そういうことなんじゃないかなー?と、私は思います。
ヒーリングセションを受けたら放置口座が気になり始めたので…
このヒーリングセションを受けてから、変化…と言っていいですかね。
分かりやすい変化が2つほどありました。
ひとつは、腰回りのお肉が落ちたことです。
私は痩せてる方なんですが、それでも中年になってから脇腹に肉が付いてきました。そして落ちない落ちない。
それが、ヒーリングセションを受けてから特に何もしていないのにスッキリしてきたのです。
心や精神と体は無関係ではありませんから、「心や精神の方で要らないものが落ちた」のかもしれません。
そして、もうひとつが、ずーーーっと放置してあり、すっかり忘れていた銀行口座のことが突然気になり出したのでした。
「これはお金を大事にしてないことになっとる!それはいけない!」と、なんともソワソワした気持になってしまったのでした。
放置口座は3つありました。
すべて会社員時代に必要があって作った口座でしたが、なんがかんだで最終的には数百円預けたまま10年以上も放置してしまいました。
2つはメガバンク、1つは地方銀行の口座だったのですが、2つのメガバンクはそれぞれ統合していて銀行名も違いますし、
そのうちの1つのメガバンクと地方銀行の口座なんて旧姓のままでした。
なので、気になり出したものの、どれも解約が手間取りそうで面倒だなー……と、思ってなかなか銀行に問い合わせをする気力が出ずに、ズルズル先のばしにしていました。
ズルズルしっぱなしではさすがにマズいと思い、「面倒でも3月中には片づけるぞー。」と少し前に目標を設定したところでした。
しかし、です。
日曜日の夜からちょっとお腹の塩梅がイマイチになり、結果的に「ナチュラル・プチ断食」の状態になりまして、
それを超えて…昨日のお昼前に突然…本当に突然だったのですが、「口座を解約しないと!」と気力がいきなりモリモリ湧いてきまして、すぐにそれぞれの銀行の最寄りの支店に電話して問い合わせたのでした。
さすがメガバンクです。
どちらも問い合わせに対しての回答がとても速かったです。
その上、旧姓のままの口座でも、通帳とカードと届け印があるなら、すぐに解約に応じてくれるとのことでした。
地方銀行の方は、問い合わせに対しての回答にもちょっと時間がかかっていましたし、旧姓のままなので戸籍抄本が必要だと言われました。(その電話の後すぐに役所に行きまして、抄本も取ってきました!)
解約手続きもその場で完了ではなく、残高は数日後に指定した別口座に振込ということでした。
そして、今日の午前中に3つの銀行に行ってきました。
メガバンクは手続きも速かったです。
最初に行ったメガバンクの方なんて、「長いことお取引していただいてありがとうございました。」と案内係の方にも担当の方にも、さらになんだか恰幅のいいオジサマにも丁寧に言ってもらっちゃいまして、
『いやいや、ずっと放置してただけだから~~。』と内心申し訳ない気持になるくらいでした。
でも、あんなに丁寧に対応してもらえると、この銀行のネットバンク用口座を作っちゃおうかな~、と思うくらいでした。
もうひとつのメガバンクの方は、そういう丁寧さよりも迅速な処理!という感じでした。
これはこれでありがたかったです。
地方銀行は一番手間がかかりましたが、対応や雰囲気に「あ~、昔ながらの銀行って感じや~。」と思いました。
洗練はされてないんですけど、それはそれでいいのかも、と思いました。
というわけで。
スッキリしました!