だいたいこの時期に毎年、大家さんが(どうやらお友達らしい)庭師さんをよこしてくださるんですが、
庭師のおじさんが、
「裏のもみの木、いつ枯れたん?」
と、びっくりしながら尋ねてきました。
そうなんです。
去年、枯れてしまったのです。
「それがですねぇ……新芽が出た頃に、去年はものすごーーーくたくさんの毛虫が出てて、この木とあの木の新芽が全部食べられちゃったんですよ…。あっちの木は復活したんですけど、こっちはダメでした。」
と、おじさんに報告しました。
「そんなこともあるんやなぁ~……。役場の近くの大きなスギの木も去年枯れちゃったしなぁ…。」
と、おじさん。
気持ち悪いほど毛虫が出まして、勝手口のあたりもうにょうにょしていて、どれだけ虫退治のスプレーをかけまくって踏みつぶしたか分かりません。
小道挟んで裏の家の生け垣にもたくさん毛虫が出てたようで、裏のおじいさんがスプレーかけまくってるのをよく見かけました。
数年前の秋口に小さい毛虫が大量発生して梅の木の葉っぱを全部食べつくした、ということもありましたが、春にあんなにも大きな毛虫がうじゃうじゃ発生したのは初めてでした。
こんなに毛虫が出てたら、夏に蛾だらけになるんちゃうか?と蛾が大嫌いな私は戦々恐々でしたが、そんなこともなく、ふつーの夏だったので良かったんですが……。
なんなんでしょうね?
虫の大発生のメカニズムって。
不思議です。
(でも、虫は苦手なので調べようは思わない。)
もしかしたら本当はまだ生きてるのかも……と、ちょっと期待したのですが、庭師のおじさんが「枯れちゃったなぁ…。」と言ったので、やっぱり枯れちゃったのか……、と、ガッカリしました。
大家さんのご両親が住んでいた家で、庭にはいろんな木がいっぱいあって、木が多すぎるよ~、と思ってるくらいなのですが、
表にあるドングリがなる木と共に、この木は好きだったんです。
ほんと、残念です。
ところで。
ちょっとしたキッカケで、数年ぶりにこの本を引っ張りだしてきて読んでいます。
やっと1巻が終わりました。
これから2巻に突入です。
数年前に読んでいるのに、忘れていることがたくさんありました。
読み直しててとても興味深いです。
ただねー。
やっぱりねー、
私の頭って「二次元」なんですよ。
なので、二次元の図を三次元の立体にどうしてもすっと興せなくて、神聖幾何学のキモのところの説明でモタモタしておりました。
ほんっとにダメでしてねぇ……。
お父ちゃんはモノゴトを三次元の立体で考えるのですが、私はどうしても平面でしか扱えません。
そこらへんのオブジェクトをごっそり抜き取って生まれてきたとしか思えません。
それで嫌いじゃないのに数学がどうしても苦手だったわけですが、
そいえばですね、高校生の時に「行列」だけはすいすい理解できまして、期末テストでも満点だったんです。
それをふと思い出しまして、お父ちゃんにそのことを話したら、
「そりゃ行列って二次元だもん。」と、言われました。
なるほどです。
ま、それでですね。
1巻の最後のあたりで、フィボナッチ数列と二進法数列を、極座標に表して説明をしているのですが、
その説明のところに
極座標グラフは、神聖形状の1つである3次元の球を平面に投影し、2次元の図として表したものです。
つまりそれは影の形なのです。
影を映してみることは、情報を得るための神聖な方法でもあります。
そしてさらに、極座標グラフは直線(男性)と曲線(女性)を合わせ持ち、男性エネルギーと女性エネルギーのりい両方を同時にふくんでいるのです。
(P325下段より引用)
とありました。
これを読んでいたら、プラトンの洞窟の比喩を思い出したのですが、
実際、そうなんだろうなー、と思いました。
私たちのこの世界というのは、上位次元の世界の「影」みたいなものなんだろうな、と。
ホロスコープもそうですよね。
あれも天球を二次元に写し取った「影」と言えると思います。
神聖な方法だからこそ、そこから読み取れるものがあるのでしょう。
そしてさらに、
そういえば私は子供の頃から「自分の影」が好きだったことの意味がちょっと分かったような気がしました。
道路に映る自分自身の影を、私はいつもキレイだと感じていたのです。
さてさて。
2巻の再読に入ります~。