今日はひぃばあちゃんとおばあちゃんとお父ちゃんとお母ちゃんとアキオの5人で一畑山薬師寺に行きました。
もちろん、ご祈祷&御札&御霊泉入浴のためです。
今回はお義母さんの家系でのご供養であります。
49日後、お義母さんのリウマチの痛みも良くなってることでしょう。
病気にもイロイロあるのですよ。
と。
いい気分でお薬師さまから帰ってきて、夕方にメールチェックとサイトチェックをしました。
…ちょっとイヤな気分になりました。
毎日チェックしてるサイトってのはいろいろあるのですが、そのうちの1つを読んでイヤ~な気分になったのです。
てか、実はそこの記事にはちょくちょくイヤな気分にさせられるんです。
なのに何故かチェックしに行っちゃうんですよね……。
でね、イヤ~な気分になってパソコンを閉じてから気がつきました。
「あ。鏡の法則だ。」って。
みなさんも、誰かの言動にイヤ~な気分にさせられることってありますね。
そーゆー時って、『自分が無意識の領域へと押し込んで見ないフリしている自分の一部を鏡で見せつけられている』んですって。
例えばね、私はほんとに息子を妊娠するちょっと前まで、5~6歳から7~8歳の女の子がお母さんに甘えている姿を見るとすごくイヤ~な気分になってたんです。
これって、私はあの年頃の時に母親に甘えることを抑圧していたんだ、ってことなんですねぇ。(それは薄々気づいてはいたけれど、ハッキリ自覚するまで続いたんです。)
また、ホリエモン逮捕のニュースに関して「何でもお金で買えると思ってるような人だから……。」というコメントもちょくちょく目にしましたが、それはそういう面をその人も持っているから、そんなコメントが出ちゃうんです。
有名人の高慢ちきな態度にイラつく、という人は、高慢ちきな自分が隠れてるんです。
自分に無いものは鏡に映らないのです。
ですから、誰かの言動でイヤ~な気分になった時はチャンスなのです。大チャンス。
自分の抑圧されている部分の疼きなのですから、それを無意識の領域から意識の領域に引っ張り上げる大チャンスなのです。
誰でもそうだと思いますが、人に無視されるのって辛いですよね?
ましてや自分自身に無視を決め込まれてしまったら、その『自分の一部』は荒れるってなもんです。
で、困ったことに無意識の領域で暴れるから、自分ではよく分からないコトになるんです。
怒りやら悲しみやら病気やら……無視している自分の一部に振り回されることになるわけです。
長所と短所はコインの表と裏の関係です。
無意識の領域で暴れているうちは、それは決して長所にはなり得ません。
では、私は何を見せつけられたのでしょうか。
それは、『批判』です。
そのサイトの管理人さんは、よく人を『批判』しているのです。
『人』の中には自分自身も入っていて、自分自身への批判の時は『罪悪感』という形になります。
他人への批判の場合は言葉がトゲトゲしています。
読んでいると、本当にイヤ~な気分になります。
そして、私も毎日どれだけたくさん『批判』をしているか、ということをハタと思い知らされました。
もちろん、例えば「あなた、身体に良くないから、そんなに食べ過ぎちゃダメよ。」は、批判ではないですね。
想いがどこから出ているかで、それは批判なのか批判ではないのかは区別できます。
私は、口にしようがしまいが、よく『批判』をしているのです。
私の大好きな五井先生の教えに『自分を赦し、人を赦し』というのがあります。
私達は、すでに赦されてるんです。神様に。
赦されてなかったら、今ここに存在してませんって。
だから、どんな時でもどんな場合でも私達は自分を赦して、他人も赦さなくてはならないのです。
が。
それができないから、人間は迷いの中で輪廻を繰り返してるんですね。
そして、赦せないから自分を批判して罪悪感を持ち、他人を批判して怒りを持ってしまうのです。
しかし。
『批判』はいけない、自分も人も赦さなくてはならない……と、無理矢理自分を変えようとしても、それこそ不自然であって、上手くいくわけがありません。
だから、「自分はまだ赦しまくる境地にはなってないけど、それはまだ自分の魂が進化の途中だからであって、いつかはそうなれるんだ。お祈りしていれば大丈夫さ~~。」と、自分自身に言いました。
そしてお祈りお祈り。
隠れていた自分を見つけた時に「私ってダメだ~。」と罪悪感を持ったら元の木阿弥だもんね。多分ね。
***
『鏡の法則』については、ココを参照されるとよろしいかと。てか、是非。(あ、ちなみにPDFファイルだよ。)
この記事の元ブログはコチラ。
アウェーの試合
今日は早起きして、お父ちゃんと一緒にお野菜の箱詰めをしました。
そのお野菜を持って、名古屋に行きました。
ハヤノ薬局の先生の所とタァちゃんちにお野菜のお届けに行きました。
いや、タァちゃんちには遊びに行った、と言うべきですな。
いやいや、アキオのアウェーの試合だった、と言うべきですな。
(タァちゃんはアキオと同じダウンちゃんで、誕生日も3週間違いなので、やることなすことがよーく似てるのであります。)
遊びに……いや、アウェーの試合に乗り込んで行ったのに、お昼にお寿司をご馳走になるわ、お野菜をお買い上げしてもらっちゃうわで、タァちゃんちに脚を向けて寝られません。
ありがとうございます。ありがとうございます。
そして、試合はドローでした。
2人ともお互いが気になるのに【一緒に遊ぶ】ということをしないのです。
微妙な距離を保ち続けているのです。
これは、なんの心理的距離なのでしょうか?
母は考えました。
おそらく、彼らはお互いをライバルだと感じていたのでしょう。
『王様は俺だ。』と。
まだ1人っ子のアキオとタァちゃんは、家族にはもちろん、じじばばおじおばにもたくさんたくさん手をかけてもらっているので、自分は王様だとすっかり勘違いしているハズです。
魔の2歳児の王様同士が出会ったんですから、こりゃ大変。
どうしてもお互いにキングの座は譲れなかったんでしょう。
しかし、ひっかく・どつく・叩く…といった攻撃は最終段階まで残しておいたものと思われます。
そのため、微妙に間合いを取りながら、お互いの出方を観察していたようです。
キッチンに立っているタァちゃんママを挟んで同じような行動をしていて、「お前ら双子か。」って感じに見えるけれども、あれもかなり高度な戦いだったのでしょう。
神経戦です。
2人のキングもかなり疲れた様子でしたね。
タァちゃんは途中でお昼寝を、アキオは帰りの車の中で速攻睡眠を取らざるを得ませんでしたもん。
父と母は、帰りの車の中で寝ている息子に向かって、「アウェーなのによく戦った…。」と、ねぎらいの言葉をかけてやりましたよ。
小犬のようにコロコロと2人して遊ぶ日はいつ頃になるのかなぁ~~。
お届けものでーす。
◆******◆私信◆******◆
海賊王さま
誕生日プレゼント、どうもありがとうございます。
今日、あまぞんから届きました。
毎年もらうアナタからのプレゼント本は、私が贈る本よりも高価なので、少々気がひけます。
なーんて、ウソです。全然ひけてません。
もらえるもんはガッチョリもらっときます。当然であります。
ありがとうございます。ありがとうございます。
◆***◆私信オワリ◆***◆
そうなんですよ。
もう何年になるでしょう。
毎年、お互いの誕生日にお互いの趣味の本を贈りつけあっているのですよ。海賊王とは。
あ、違う。間違えた。
彼は私の趣味を慮って選んでくれることも多いみたいなんですが、私は自分の世界を展開しっぱなしなのであります。暴走列車は止まれない止まれない。
こーゆーのも面白いので、できればどっちかが死ぬまで続けられたらなぁ、と思っております。(もちろん、私の方が長生きの予定。)
私も少しばかりオカシイような気がするが。
大寒の今日、私の37歳の誕生日であります。
オカン、産んでくれてありがとう。
朝の9時頃に産気づき、昼の12時丁度に生まれたんだそうです。
初産なのにめっちゃ早いお産ですなぁ。
でもって、出産予定日ピッタリだったそうですわ。
私が生まれた日は雪が降ってたそうです。
ヒプノセラピーで見た1コ前の前世では、雪の中で死んだので、雪の日に生まれたのも必然かも。
そんな私の原点である実家には、現在オカンと弟2人がいます。
今日になって、弟2号の新しい日記の存在を知りまして、つらつらと読んでみました。
……。
『普通の家庭』というものがどんなものかも分かりませんし、世の中の家庭の平均値を『普通』というなら、ほとんどの家庭はどこかしら『普通』からハズれていることになりますよね。
そうは言っても、ウチの実家はやっぱりちょっと端っこの方にズレてるというか、オカシイということに気がつきました。
もちろん、オカシイというのは褒め言葉で使ってますが、ちょっと頭がオカシイというテイストも若干含んでます。
私がその場にいたら、それこそ『普通』なやりとりなもんだから、なにがオカシイのか分からんやろな、と思ったんですけど、少し客観的に家族のことを見た(読んだ)もんですから、途端に「……オカシイ。」って気づいちゃったんです。
大笑いしちゃいましたよ。自分の家族のやりとりなのに。
こーゆー色の家族の中で育ってるんですから、私も少しオカシイのかもしれませんね……。
『オーラの泉』を見ていれば、自分というのは現世での環境の影響によって形成されているだけではなく、自分の前世での生き方・考え方の癖も持ち越してるんだなぁ~~、というのがよーーーく分かります。
んでも、やっぱり現世の影響ってスゴいね。
家族みんなで影響し合って、なんだかみーんなオカシイんだもん。
そして、その『ちょっとオカシイ』色は、確実にアキオにも出てきてるし。
さすがに旦那さんは、オカシイ色には染まってないけど、だんだんだんだん馴染んできてるしなぁ~。
でもね。
あのオカシイ人達の中で、私は1番『普通』なのであります。
23歳から実家には『住んでいない』ので、色が褪せてきて『普通度』が徐々に高くなっていったんでしょう。
実際、弟1号にはよく「おねーちゃん、社会人になってからツマらんくなった。」と文句を言われてましたし。
…そんなコト言われてもなぁ。
そんなオカシイ弟2号の日記はコチラ。
1月11日(あ。オカンの誕生日やないの。)の日記がオカシイ度高いです。
1日早いけれど、お誕生日プレゼントをもらっちゃった(ようなもんだ)。
先日はお野菜の配達でしたが、今日は相談ってことで例(霊)の先生の所に行ってきました。
農園名はこれで問題ないかしら?とか、まぁいろいろ盛り沢山な相談・質問だったのですが、先生との時間は『神様への信仰』という基礎の上にありますから、どんな相談であっても雑談であっても非常に濃厚なのであります。
全てが『神様トーク』ってわけですな。
しかし、最初っからそうだったわけではないんです。
私の体調不良についての相談から始まったのですが、3年くらいの間はずーーっと行く度に成仏していないご先祖さまがどっかんどっかん見つかるため、今ほど濃厚な『神様トーク』はしてもらっていなかったんです。
それが、一段落ついてからですねぇ。今から思うと。
徐々に濃くなっていきました。『神様トーク』が。
そうすると、やっぱり有り難いもんでして、さらに私達の意識(霊性)も少しずつではあるけれども目覚めていきまして、もっと先生の『神様トーク』への感度が鋭くなっていく……という、好ましい循環が続いていってるのです。
もちろん、その間、いろんな人の話や本からもお勉強させてもらってますしね。
それに、『成長痛』も大きいのから小さいのまで、じくじくやられて変容を迫られ続けてますし、息子のダウン症っていうエラいことデカいインパクトも推進力になってますし。波動エンジン並。
つまり、ご縁はちゃんとそれぞれに合った形で最適な時にいただけるもんなんですけど、それを大事にするか、そこからちゃんと学ぶことができるかどうか、というのは各人の自由意志に任されているってことですね。
たとえそれが病気や事故などマイナスの形で現れたとしても、とにかく『好ましい循環』を掴むためのチャンスは目の前にいーーーっぱい転がっているんですもんね。
そして、その道は様々なのです。
植芝先生のように武道を極めていくことで神様への道が開けた人もいますし、マクロビオティックから神様への道が開けた人もいます。
この世は神様が大いなる意図の元で創造され、この世は神様が遍満する世界なのですから、全ての道が神様への道であるというのは、当然と言えば当然なのですが。
ですから、ご縁をいただいたら大事にして素直に学ばないと勿体ないっちゅーことですな。
大事にできない理由(言い訳)なんていくらでも思い浮かぶけれど、それではいつまで経っても変わらんしね。
私自身も山ほどチャンスをポイ捨てしてきてんだろうなぁ~~、って思いますもん。ああ、勿体ない。
でもね。
あまりにポイ捨てし過ぎると、さすがに負荷がかかるようになるんですよ。
事故とか治りにくい病気とかね。
できれば、負荷がどーんとかかる前に気がつけるといいんだけどねーー。
でも、私にしたって負荷がどーーーんとかかってから慌てたしねーーー。
人間って、そーゆーふうにできてるんでしょうかねぇーーー。ああ、勿体ない勿体ない。
で。
今日は最後の最後に、先生からプレゼントをいただきました。
阿弥陀様のお写真です。
「これ、性(しょう)が入っちゃってるけど、あげるわー。」って。
明日は私の誕生日なので、素晴らしい誕生日プレゼント…ということにもなっちゃいました。(もちろん先生はそんなコト知らないよ。)
おばあちゃんたちとお留守番していた息子に阿弥陀様のお写真を見せたら、スッと『のんのんあん』をしました。
さすがだ。分かっとるなぁ~。この子は。
そうそう。
農園名は『かぎしっぽ農園』で問題ナシでした。やったー。
『かぎしっぽ』って名前は旦那さんがお百姓をやりたくなるずーっと前から私が温めてきた名前なんですわ。
由来は実家の猫、ハナちゃんのしっぽです。
かぎしっぽは福をひっかけて招き入れるんだよん。おほ。
てことで。
これから、『かぎしっぽ農園』をよろしくお願いします。
死に水
今年から野菜の販売を始めるということで色々と考えなきゃならんことが山積みです。
とりありず赤目の新年会では自然農野菜販売の経験者である伊川君(健一自然農園)には色々話を聞かせて貰えました(お客さんとの嬉しいやりとりだけでなく、ひいきだった方から突然質が悪いと怒鳴られ陰で涙した話なども)。今はお茶中心ということで野菜の個別販売は止めたのですが、その時の経験はとても身になっているとのこと。
「面白いのはこれからだよ。」と勇気づけられました。
そして今日(もう昨日だね)。
今年から定期的に野菜を届けて欲しいと頼まれた近くのクリニックに、お昼に野菜セットを届けました。
葉物など軟弱野菜は昨日の夕方に収穫しておいたものを一晩水につけてシャキっとさせて。
根菜やキャベツ、ブロッコリーなど大きめ野菜は本日午前に収穫して持っていきました。
葉物を前日に収穫して水につけておくのは、いつも料理用の野菜たちが収穫後数時間でみるみるシナシナになることに気付いたよしみ社長のアイデアでした。自分としても収穫時間も分散できるのでそれは良いなぁと試してみたのです。
自然農な畑では葉物を育てる場合もほとんど水を与えないので水分の余裕がないのかもしれません。水につけた野菜は物凄い勢いで元気になり、畑で生えていた時以上のピチピチの姿となります。その生命力の強さには驚かされます。
そして今晩、クリニックの先生(ちなみに女性です)に感想など色々聞かせて貰えました。
その中で、この一晩水をつけておくというところでとてもありがたい感想を頂けました。
今回は葉物は一晩水につけて持ってきましたと話したところ、
「それで前回と比べてほうれん草の味が変わったんだわ。」と話されたのです。
前回(昨年末)にも今回と同じ日本ほうれん草を届けました。どちらも地を這う姿でやっと10センチ程度に成長したものです。違いは前回は午前にとったほうれん草をそのまま届けたことだけです。
「一晩水につけて持ってきたんです。」
「ああ、水道水を使ったのね。吸わせるなら本当にいい水を使ってね。
でも私はサンサンと浴びていた太陽を一杯感じた前回のほうれん草も好きだわ。」
ガツンときました。物凄く単純なこと見落としてました。
ホントありがたい話聞かせてもらえました。
これからどうするかはまた考えます。
本当に面白いのはこれからだね。
お野菜の販売、始めました。
去年の3月にこっちに引っ越してきまして、旦那さんがお百姓見習いを始めました。
畑と田んぼを借りて、師匠にいろいろ助けてもらいながら、それなりにいろんなお野菜やお米が収穫できました。
本当にありがたいことなので、1年目は家族や親戚、知り合い友達に配って食べてもらい、1年経ったら少しずつお野菜の販売をしようか、って旦那さんは言ってました。
でも、去年末からお客さんがついてくれました。
いつも夕食会に招いてくださるクリニックの先生と、ずーっとお世話になってる例(霊)の先生です。
お野菜が美味しいからって、定期的に買ってくれるって言うんです。ありがたやありがたや~~。
というわけで、予定より早くお野菜のお届け販売を始めちゃいました。
日曜日には例の先生の所に、今日はクリニックとくすりのミヤノさんにもお届けに行きました。
しかし、値段のつけ方が分からんのです。非常に難しいのです。
今までサラリーマンだったし、商売したことないし、お百姓って言っても慣行農法じゃないしー。
なので、無農薬野菜を通販で購入しているユウスケ母に電話して、利用している所はどんなもんか教えてもらいました。(ありがとね!)
そして、くすりのミヤノさんにもサンプルを持って行って、「お値段のつけ方が分からんのですー。」と相談しました。
いろいろ親切に相談にのってもらった上に、サンプルをとりあえずの値段でお買い上げしてもらっちゃいました。
あああ、ありがたや~~。
クリニックの夕食会でも、先生や先生のお母さん、夕食会に来ていたみなさんがいろいろ意見を言ってくれました。
値段のことだけじゃなく、いろんな面でもアドバイスをいただき、家に帰ってからも旦那さんといろいろ話し合いをしました。いや~~、ほんと勉強になるですよ。
クリニックの先生は全面的に協力してくださるみたいで、本当に嬉し過ぎです。
「俺らは、みんなに育ててもらうんや~。」と、旦那さんはニコニコしながら言ってました。
うん。ほんとそうだなぁ、と思います。
もちろん、こうやって直接関わってくれている人たちだけじゃなく、旦那さんが会社にいる頃から理解を示して応援してくれていた家族や友達にも『育ててもらっている』と感謝してます。
今年はまだまだ我が家の収支は赤字だと思うけど、少しずつ少しずつ理解者(お客さん)も増えていくと思うし、私達もできることを増やしていけると思うし、自然(神様)への感謝を常に持っていれば、きっと美味しいお野菜がずっと育ってくれると思うんで、脇道に逸れて行かないように注意していきたいと思います。(←脇道に逸れやすいのは旦那さんじゃなくて私の方。まだまだ業が深いんで。)
てなわけで。
お野菜の販売を始めました。
名古屋方面のお友達で「買ってもいいよ。」と言ってくれる人も少しだけいますが、購入希望が10件前後あれば1ヶ月に1回くらい配達に行けるんだけどなぁ~、と思ってます。
きっと、これもそのうち実現できると思ってるんですけどね。いつ頃になるかな~?楽しみ~~。
じっと見守る。
先輩(たけちゃん)の年賀状にURLが書いてあったのですよ。
今頃になって「おー。見なくちゃー。」と興味がムクムクと湧いてきたのでアクセスしました。
おーー。
かわいいジュニアやん~。
いいなー。小さい赤ちゃんって、ほんといいよなぁ~~。
ということで。
お気に入りに入れておきました。
****
昨日の夜から友人が泊まりで遊びに来てくれました。
近況を聞いてみたら、仕事上での悩みとかプライベートでの変化とか、いろいろ辛いんだそうです。
でも、話しを聞いていたらね、その辛さは身体でたとえると『成長痛』みたいなもんだと感じられたんですよ。
その友人には以前からお祈りを薦めてたんですが、根が素直な友人は少しずつでもお祈りをちまちまと続けてくれてるんです。
「ある程度お祈りをするとね、辛くなってくるんだよ~~。」と旦那さん。
そうなんです。
お祈りを続けていくと、その人その人で形はさまざまなんですが、辛いと感じるような状況になってくるんですよ。
それまで光が当たっていなかった部分にも光が射すようになるので、日陰の湿気た所でぐぢょぐぢょになっていたものがドバ~っと出てくるんですね。
病気という形だったり、人間関係の悩みだったり、仕事での躓きだったり……ほんとに様々です。
私なんて父親のデカい借金が出てきたしー、身体はボロボロだったしー、仕事もダメダメだったしー。
『成長痛』みたいなもん、というのはそういう意味なのです。
でも、どれだけ辛くてもしんどくても目の前が真っ暗でも、この痛みによって変容していくのですから、やはりこれは大きなチャンスなのです。
ピンチは大チャンスなのであります。
これは、自分も通ってきた道なので、よーく分かります。
よーく分かるだけにアドバイスはできても、乗り越えて変容していくのはその人自身でしか有り得ないので、こっちは見守るしか無いのであります。
私、子育てというのも、そーゆーものかもなぁ、って思うんです。
アドバイスはするけど、じっと見守る。
ついつい子どもに押しつけがましくなってしまうのを我慢しなくてはならんと思うのです。
アドバイスはするけれど、子どもが自発的に動くのをじーっと待つ。
これは、健常児でも障害児でも基本は同じだと思うので、親が先に先にと先回りしてしまうことが無いように気をつけようと、心の隅っこでいつも思っています。
親の不安を解消するために、子どもをコントロールしてはならんと思うのです。
子育てって、親の精進なんですなぁ~。
新しい年、畑、軽トラ
無事に新しい年を迎えることができたので新しい畑を借りてみました。
見晴らしの良い場所にある畑です。一反弱(約280坪)あります。
砂地で乾燥気味の畑です。ここ数年はトラクタで草を抑えるのみで耕作はされていませんでした。
畑の中に入ってみました。
新雪の中を歩いているように耕してあった土にサクサクと足跡がつきます。
明日以降ゆっくりと畝を立て、春からじゃが芋、南瓜、落花生、サツマイモ、ネギ等をここで栽培するつもりです。
これで現在借りている田畑は以下の通り、全部で約3反6畝(1080坪)にもなりました。
・K田(1反…慣行農法)
・M田(3畝…自然農)
・K畑(1反1畝…自然農)
・T畑(3畝…自然農)
・新しく借りた畑(9畝…自然農予定)
他にももう少し追加がありそうなので、目標であった5反百姓(自分の農地を手に入れることができる最低条件)に今年は届くかもしれません。
そうそう百姓といえば軽トラ。ついに購入し今年から乗り始めました。
これから長いつきあいになる相棒なので贅沢をさせてもらいました。
新車です。スバルです。サンバーです。四駆です。スーチャです。
早速砥鹿神社でご祈祷してきました。
こいつでみんなのところに野菜を届けにいきます。
迷信や蒙昧に覆われた社会
江原さんの書き下ろし文庫本が出たって知ったので、今日行った本屋で探したんですが見つかりませんでした。
***追記***
この本はH15年初版でした。出たばっかの本じゃなかったよ。私の勘違いでした。
**********
で、アマゾンで出版社はどこかなー?と探してみたんですよ。
で、で、ついでにカスタマーレビューもチラっと見てみたんですよ。
そしたら、「カルトと紙一重」なんて感想が書いてありました。
神様仏様のことが心で感じられない、少し頭がイイ系の人が書きそうなコトだよなぁーー、と軽く思ったんですけどね、も一回読んでみたら、この人は本当は何が言いたいんだろう??って分からなくなってきました。
ほんとに分からんのですよ。
こーゆータイプの人たちって本当は何に怒ってるのかなぁ…。
でも、『迷信や蒙昧に覆われた社会はやがて堕落するでしょう。』という意見には大賛成。
世の中で当たり前とか常識とかって思われてることだって、『単に大多数の人間が決めただけのこと』だから、迷信や蒙昧のようなもんだと思うんですよ。都合が良いというだけで。
霊の世界や前世の存在なんて誰にも判断できないという【常識】だって迷信だしね。(自分は目が見えないからってんで「世の中は真っ暗だ。世の中はいろんな色で溢れてると言うのはデタラメだ。」と言ってるのと同じでしょ?「自分にとって世の中は真っ暗だ。いろんな色で溢れているなんて信じられない。」と言うなら間違ってないけど。)
私達はみんな、迷信や蒙昧がごぼごぼ溢れ返ってる世界で必死で生きているのですよ。
だから、迷信や蒙昧を払う光を、真理を常に求めなきゃならんのです。
でないと堕落しっぱなし。
脳の中だけに閉じこもっていて知ったかぶりをしていては危ない、と思うなぁ。
もちろん、それは自分も含めてね。…そう思うんだけどなぁ。